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『意志を継ぐもの』


 少年は、大岩の上に座る長老を見つめていた。かつては村の勇者だった男も今ではすっかり痩せこけ、ギラギラと光る大きな目が、男の持つ不気味な雰囲気を際だたせていた。 遠く東の空は、薄紫色に染まりつつある。夜明けは間近だ。母なるテイテワナの大地は、緩やかに脈動を始めるだろう。
 長老は、少年に座るよう指図した。ほとんどの者が寝ているこの時間に、彼は長老に連れられ村からだいぶ離れた岩場へと来ていた。このあたりはハイエナの現れる場所だ。薄明の中で彼らに遭遇したら、逃げ延びる術など無い。
 少年は拒んだ。長老は重い病を患っている。早く隣村から祈祷師を呼んで、悪魔払いをしてもらわなければならない。
 しかしもう一度、今度はさっきよりもゆっくりと、長老は持っていた枯れ木の杖を振るった。その顔は、少年が初めてみる厳しいものだった。鋭い眼光に射られ、少年は崩れるようにその場に座り込んだ。
 長老はゆっくりと口を開いた。肺腑の底から紡ぎ出される低い声は、今日のような風の強い日には聞き取りにくかった。
 「お前は、もう大人だ」
 長老の言葉に、少年の全身が疼いた。鼓動が高まり、あの時の興奮した気持ちがよみがえってくる。
 「はい」
 少年の体には、からみつく赤い曲線とヘビの頭を模した、乱雑な入れ墨が描かれていた。それは、先日少年に対してイニシエーション、つまり加入の儀式が行われた証拠だった。彼らの部族では、15歳を迎えたものはそれまでの女・子どもの社会から切り離され、いったん村の男達のもとで隔離される。その間に、先祖崇拝や部族の法の教育、成人の証である入れ墨と割礼が行われ、彼らは一度死んで再び生まれ変わる。『死と再生』という観念に基づいた、共同体の一員としての重要な儀式が行われたのである。
 口をしっかり開けてしゃべることを意識した少年に、長老は小さく笑ったようだった。少年はどうして良いか分からず、もう一度「はい」とだけ答えた。
 再び長老の口が動いた。
 「お前は将来、この村を束ねる族長になる。だからお前だけに教えよう。これは誰にも話してはならない。そして、このことを知るのは村で二人までだ」
 少年は長老の始めの一言に驚き、その場で硬直した。背中を汗が一筋伝わっていくのを感じた。じっとしていても息苦しい。心の奥底で、大きな岩戸がゆっくりと開いていく。遠くなりそうな意識を無理矢理押さえつけて、少年はなんとかその場に踏みとどまった。
 「古代、人は愚かしく卑しい生き物であった。しかし土地の精霊らに感化され、人は人たりえる自然の真理を見つけたのだ。大地の精カーラに感謝し、雨の精ウントを求め、風の精ビナシラに恐れおののく。お前に問おう。これら精霊を見たことがあるか?」
 少年は体を震わせた。長老の顔を見つめることすら出来なかった。強く唇をかみしめ、やっとの思いで息をついた。
 「はい」
 「うそをつくな!」
 答えた少年に、長老は矢のような叱責を与えた。老い衰えた華奢な体の、どこにそんな力が残っていたのだろうか。太く強く響く声が、少年をはっとさせた。
 「幻想を捨てよ! 今大いなる力の前に、お前はひれ伏すのだ」
 少年は訴えるような顔を、長老へと向けた。長老は弱々しく頷くと、話を続けた。
 「我々が歩みを始める遙か以前、この地に神が下り立った。彼らは、我々の世界とは違う遠い国から来た人間だった。白く輝く船に乗り、炎をはべらせ空を駆った。無謀にも彼らに刃向かおうとした男は、彼らの呪文で一瞬にして灰となった。彼らは我々に様々なことを教えてくれた。畑の作り方。牛の飼い方。井戸の掘り方。我々の中に・・・」
 少年はそれからの長老の話に夢中だった。どれもが突拍子もない話だったが不思議と真実味があり、そこに織り交ぜられた知識の渦に、少年は興奮していた。いにしえの伝説。確かな鼓動。伝わりゆく叡智。長老の低い旋律に乗って、少年の心は宇宙を舞い踊った。
 「神は、神は今どこにいるのですか?」
 少年は、哀願するような声で長老に尋ねた。長老は寂しげな視線を、開きゆく天空へと向けた。
 「彼らは、彼らの国へと戻った。またいつか戻る、そう約束をして」
 少年は、昨日までとは違った眼差しで、岩の上に座る長老を見つめていた。
 長老は、この未来の村の指導者に、全てを話し終えたようだった。70年に及ぶ人生の苦節が深いしわとなって現れた老人の顔には、何とも言いえぬ静かな満足感が広がっていた。
 「この村でこの話を知る者は、今の族長とわしの二人だけであった」
 老人は、低い声で教え諭すように少年に話しかけた。
 「しかし今、お前はこの伝承に触れたのだ。このことを知る者が、村に二人以上いてはいけない」
 少年は、その寂しそうな響きに何かを感じ取った。老人は、内に強い決意を秘めている。これは止めてはならないことだ。村の掟。部族の歴史。脈々と受け継がれてきたそれらを、少年は受け入れねばならなかった。輝きを得た太陽が、地平線の上にその威容を現し始めた。宵は終わった。新しい一日が、ゆっくりと回り始める。
 少年は、岩の上の老人に静かに頭を下げた。やがて衣の擦れる音と、それに続く砂袋を落としたような音が聞こえた。
 下を向いた少年の目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。朝日を受けて輝くそれは、歴史の重みに押しつぶされそうになりながらも、自分の運命を受け入れ、耐えようとする一人の男の涙だった。

 男は大岩を見ずに立ち上がった。振り返ると、遠く村の方に幾筋かの煙が見えた。もう女達は起き出して、朝の支度を始めているのだ。
 男は走り出した。ハイエナのたむろする岩場と、そこに残された一人の老人を後にして。朝の空気をいっぱいに吸い込んで、男は大声を上げた。悲しみを振り払うように。自分の使命を確かめるように。
 意志を継ぐものは、その強固なる顔に歴史の累代を刻んでゆくだろう。


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