『夢現』
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そこは石上穴穂宮のとある一室。 老人は長い顎鬚をしごき、言うべきか否かと躊躇していた。 大王を前に萎縮していたのだろうか……。 最初こそ、言い淀む老人を笑って眺めていた大王だったが、次第に苛立ってきた。 興をそがれた大王がしびれを切らし、とうとう老人の退出を命じようとした時、老人はようやく口を開いた。 「……謀反の疑いがあります」 「誰のだ?」 大王に問われた老人はしばらく黙りつづけていたが、やがて決意し告げた。 「……大王の叔父君であらせられる大草香皇子でございます」
大草香皇子は仁徳天皇(倭王讃)と日向髪長媛の子である。 前の大王――允恭天皇崩御後、その子、木梨軽太子が即位することになっていた。 大王――当時、穴穂皇子は誰よりも優れていると自負していた。 木梨軽太子が同腹の妹、軽大郎女に恋心を抱いていることを穴穂皇子は知っていた。 ――勝者となった穴穂皇子は、しかし、猜疑心の強い男だった。 自分が兄を陥れたように、自分も騙されるのではないだろうかと。 大王は老人の讒言を容易く信じた。 大王は、大草香皇子を殺し、その嫡妻の長田大郎女を皇后とした。 この事件に、人々は囁いた。 ――大王は長田大郎女が欲しいために、大草香王子に謀反の疑いをかけたのではないかと。 そして、大草香皇子の子、眉輪王の動向を静かに見詰めた……。 |
父を殺され、長田大郎女を皇后に迎えた大王を、眉輪王は激しく恨んだ。 即位後も讒言を信じた大王。 いつか、自分も父と同じように殺されるのではないだろうかと眉輪王は考えた。 父を殺された恨みと、自分が殺されるかもしれない恐怖……。 やがて、眉輪王は一つの結論に達した。 |
赤は血の色を連想させる……。 「韓媛様、遅いですわね……」 |
御舘の壁にかけられた灯盞の火がゆるやかな光の輪を描いていた。 「私は、眉輪王様の味方です」 目の前に座る葛城円大臣はきっぱりと言い切った。 「讒言を信じた暗愚な男に、この国を任せておいてもよいのですか?」 葛城円大臣のその一言が眉輪王の心を捕らえた。 眉輪王は父を殺した大王への憎しみ、恨みしかなかった。 自身が大王にとってかわろうとは考えていなかった。 ――私が大王になる……? 眉輪王の鼓動は次第に速くなり、額から汗が流れ始めた。 彼の様子を冷静に葛城円大臣は見ていた。 葛城円大臣は、眉輪王を擁して、現勢力に対抗しようとしていた。 後、一言だ……。 そして――。 |
共の者を従えて、御舘から出て行く眉輪王の姿を阿由は見つけた。 阿由は大急ぎで韓媛の元へ走っていき、彼女に報告した。 「媛様。眉輪王様が御舘を出られました。まもなくこちらに来られるのではないでしょうか?」 「……そうね」 阿由は少しでも韓媛を元気付けようとしていたが、韓媛は興味なさそうに答えた。 会いたくない。 もう、始まっているのだ。 扉の開く音に、韓媛は顔を上げた。 「……具合でも悪いのか?」 眉輪王が出て行った後、韓媛は脇几に顔を伏せ声を放って泣いた。 遠くにいってしまった。 |
――時を待ちましょう。 葛城円大臣はそういった。 眉輪王は葛城円大臣と話したこと――自分が大王となること――よりも、殺されるかもしれない恐怖が勝った。 ――殺られる前に……。 眉輪王はひそかに大王の隙を伺って、大王を弑虐した。 中々眠りにつけずにいた韓媛は一人で御舘のまわりを歩いていた。 暗闇に慣れた目が木々の中に潜む人影を捉えた。 |
大王の弟、大長谷王子はこの一件を知って怒り、軍をおこして葛城円大臣の屋敷を囲んだ。 葛城円大臣は眉輪王を庇い、抵抗し続けた。 謀反者を突き出せない理由は、円大臣が眉輪王をそそのかしたと容易に考えることができた。 葛城氏は有力な豪族だ。ここで無為に叩き潰すよりも、むしろ…… 大長谷王子は円大臣に密書を書き送った。 ――韓媛と五処の屯宅を献上すれば、罪を許す。 大長谷王子は葛城円大臣の野望を知っていたのだ。 ――眉輪王に韓媛を嫁がせ勢力を握ろうとしているのだろう。今の状況ではその夢は叶わない。私なら、お前の夢を叶えてやれる。 円大臣の心は揺れた。 ――お亡くなりになりました、と。 |
――ひとりになりたいの。 韓媛はいった。 こんな時の韓媛には何も言わない方がいい。 どんなに気になっても、そっとしてあげる方がいい。 阿由は何も言わず、部屋を出た。 今となれば……。 不安を覚えた阿由が部屋を訪れた時、韓媛は短剣で喉をついて絶命していた。 変わり果てた娘の姿を見た円大臣はその場に崩れた。 もう、終わりだ……。いや、本当に終わりなのか……? 阿由を美々しく飾り立てて、彼女を大長谷王子に献上した。 韓媛の身代わりとなった阿由の胸には、生前、韓媛がこよなく好んだ美しい碧い石の首飾りが、午前の光を浴びてきらりと輝いた。 |
――私は目覚めると、本を手に取った。 葛城円大臣は下命によって娘の韓媛と五処の屯宅を献じたが、なお眉輪王をかばって戦った。 本が全て真実を語っているとはいえないことを私は知っていたし、特に不思議な夢を見た私は違うように感じた。 私は本のページをめくった。 大長谷王子は同母兄の八釣白彦皇子、境黒彦皇子、従兄弟の市部押磐皇子、御馬皇子など多くの皇族を殺して即位し(雄略天皇、倭王武)長谷朝倉宮で天下を治めた。 私が思うには……。 さらにページをめくった。 韓媛との間に生まれた白髪命が、父の後を継ぎ、即位した。 <完> |
<参考文献> 「日本古代史講義」 笹山晴生 「日本の歴史 1 神話から歴史へ」 井上光貞 |
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