『 Titan - snow 』



 茫漠とした星々の荒野。
 冷えきって、温かみなどあろう筈もない、絶対零度の闇。
 吹き渡る太陽風に乗って、一隻の船がゆく。
 巨大な帆に光子の流れをはらませて、ゆっくりと、そして静かに。
 透明な羽根は繊細な蝶を思わせ、幾億の微光を映す船体は水銀めいて。
 星系内旅客船、クル・スター号。
 あまりに優美なその姿から、「月の宝冠」とも称される船。
 五千人を超える人々を運びうるその船に、今、乗客はふたりだけだ。
 月の軌道ステーションを離れ、火星を周回し、土星へと向かう航路を進むクル・スター号に、たったふたり。
 老人と、どこか幼さの残る若い女と。


「さあ、じきに目的地、土星のトロイアへ到着してしまいます」
 女は、歌うような調子で呟いた。
 クル・スター号の展望室の中央には、ベッドがひとつ。
 そのベッドに横たわるのは、体中にチューブや電極を繋がれた老人だ。
「トロイアに到着しようと、結論が出なければ何にもならぬ」
 ベッド脇の小箱から、若々しい声が流れた。不自然なほど若々しい、老人の声。完璧なイントネーションの、商用英語だ。
「そうは仰いますけど──」
 ベッドの傍らの女が、なにやら少女然と口を尖らせてみせる。
「わたしたち、もう何十時間この問題を話してきたとお思いなのです?」
 老人のまぶたが開き、その瞳が動いた。
「しかし、結論は出ぬままじゃ。このままでは、何のためにこの船を徴用したかわからなくなる。しかしな、嬢ちゃんはトロイアで降りて、それなりに楽しむこともできようが、儂はそうもいかんのじゃぞ。トロイアに着いても、すぐまた出港じゃ。いかに慣れ親しんだ冷たい宇宙とはいえ、往復するあいだ、ここでずっと無窮の星々を眺める儂の身にもなってみよ」
「もう! 年寄りの愚痴はやめてください!」
 女の言葉に、老人の傍らの小箱は、クククと忍び笑いを漏らした。
 ため息をひとつ吐くと、女は視線を星空へと向けた。
 展望室は伝統的なつくりをしていて、半球体の全面が透過スクリーンになっている。
 金属質の床面にスクリーンの星空が映り込んで、ベッドと傍らの女だけが宇宙に浮かんでいるかのような錯覚をもたらす。
 かつての人、つまり地球という重力の底に暮らしている人々なら、数時間をこの場で過ごすだけで発狂しかねない。虚空と星々だけの空間は、あまりに茫漠としているために、焦点のあわせようもないからだ。
「星々でさえ、時にはその姿を変える。星々でさえ、時と共に老いる。人に比べれば、怖ろしく長命であるにせよ、な。
 儂を見てみよ。もう、二百歳になんなんとするこの身を。無数の機械と、幾たび取り替えたかもわからぬ臓器とによって生かされ続ける、この身を。もはや、自由に動かせるのは眼球くらいのものじゃが、それとても本来の儂のものではないのじゃ──」
 女が視線を老人に戻すと、老人はじっと星空を見つめていた。
「ことによると、儂が戻った時には、もう権力を失っておるやもしれん。なにしろ、若い連中はイライラしておるゆえ。だがまあ、手ひどい代償を受けるを承知で、それでも儂に向かってくるほど骨のあるのはおらんじゃろう……。いずれにせよ、儂は生きすぎた。生かされすぎた──」
 老人を見つめる女は、孤独な老人の呟きを静かに聴いていた。
 数十年、権力の頂点にありつづけ、ひとり孤独を友に生きてきた男。死を望みながら、しかし死を得ることの許されない男。殺されることを、権力の座から放逐されることを望みながら、しかしそれをなし得る後継者を持てなかった男。
「嬢ちゃん。──未来永劫、死を知らずに生き続ける、というのは、どんな気分なのじゃろうな?」
 目の前に投げ出された老人の言葉に、女は返事をしなかった。
 その様子を横目に見て、老人は低く笑った。
「嬢ちゃん、これは単なる独り言じゃ。お前さんにふくむところがあるわけではないぞ」
 語尾に、完璧すぎる軽快な笑いが続いた。
 卑怯かもしれない、と女は思う。
 こうした交渉で、完璧に制御された音声と一切の感情をあらわさない容貌は、あまりにも強力で、卑怯とさえ思える。
「閣下、そろそろ本題に戻りませんか?」
 われながら下手なセリフ、と思いつつも、女は老人に言った。
「残された時間はもう少ないのです。どうしても、この航海の間に決めなくては──」
「強行せざるを得なくなる、か……。よかろう、本題に戻るとしよう」
 女は胸の中で安堵のため息をもらしたものの、表情にはあらわれなかった。
 既に、ここまでの航海中に幾つかの事項で合意は成った。しかし、もっとも重要な問題について合意がなされなければ、その全ては水泡に帰す。
 女は、残り少ないカードを一枚、切ってみることにした。
「閣下、アドニス条約の第四条改訂に関して、環太陽の議会が受諾する旨を明らかにしたこと、ご承知ですか?」
 このカードは、わざわざここまで一度も切らずにいたものだ。老人の胸に、驚愕の轟きを響かせるに足るはず。
 しかし、それもまた、老人の仮面に隠されて、女は何も伺い知ることは出来なかった。
「人間条項、つまり第一条の改訂でもされることがあったら、教えてくれ。なにしろ、この通りのカラダなのでな、あれがヘタに改訂されると、儂は抹殺されかねん」
 そして、低い笑い。

「よいではないか。天体の民間所有を認めたとて、何の問題がある? 現に、ほとんどの船舶は民間所有じゃ。いまさら、形骸化した条項を尊守したとて、意味はない。それとも、改訂四条を盾に、押し切ろうとでも考えておったのか?」
「しかし、これでわたしは法的にフリーになれますわ」
「そうじゃな、しかし、星際政治の力学は、また別のものよ。たしかに、あれは数少ない『効力のある条約』じゃ。しかし、現実はそうそう上手くはいかん。法学者が机上で考えるようにはいかんものじゃ──」
 女は、ここで軽く咳払いをした。
「閣下、わたしは単に法的な事実を申し上げただけです。もちろん、閣下の仰ることは百も承知のこと、遅滞なく準備を整えています。いつでも実行できる程に。だからこそ、閣下は今回の会談に応じてくださったのでは?」
「嬢ちゃん、儂はお前さん方の準備が不足しておるとか、不可能ごとだと言っておるのではないぞ。ただ、法的な事柄に拘泥しすぎるのは危険じゃと、そう指摘したかっただけじゃ。まあ、トロヤ点の火器、あれは考え物だと思うが、な」
 女の胸に轟いた衝撃は、表情に出ることを防ぐことが出来ないほど大きかった。
 あれは、トロヤ点の軌道兵器は、まさしく虎の子なのだ。絶対に情報漏れなどある筈がなかったというのに──。
「それ、それ。嬢ちゃん、儂のような海千山千の古狸を相手にするときは、表情を消さねばイカン。これで、トロヤの噂が真実と知れたではないか」
「閣下──」
 女の絶句に、小箱から流れる低い笑声が重なった。
「閣下……全てのものに、機会は平等に与えられるべきです。ヒトは、すでに星々の荒野を渡り始めたではありませんか。既に時が来たとはお考えになりませんか。われらにはもはや必要のないものなれば、そこに生きる全てのものに、等しく機会を与えてしかるべきです」
「否」
 老人の言葉に、迷いは無かった。
「儂は、責任を負うておる。それは主として、儂を支持し、権力をもって導くべしと決めた国民に対するもの。その意味では、儂は代弁者であって、決定主体ではない。国民の利益と福祉を侵犯し、あるいは減ずる提案を飲むときは、それをも上回る何か、たとえば安全保障や命そのものへの危険があると判断したときのみ」
「わたしは、合意成らざるときは強行すると、既に申し上げました」
「そう。そして儂は、それが国民の利益・福祉を減じてまで飲むべきこととは思わぬ。それだけのことじゃ」
 女は、そっとため息をついた。
 これでは、堂々巡りだ。数十時間前と、なんら変わらない。
「まだ、時間はある。数時間じゃが。その間に、儂を説得してみよ」
 老人は、可笑しげに目を光らせて、女を見つめた。
 その時、展望室の入り口が開き、光の中から細身の男が現れた。
 服装から一目でこの船の船長とわかる。
 女は時々不思議に思う。どうして、数百年前の古めかしい衣装に拘るのだろう。
 白地に金ボタンの制服、黒い鍔の帽子に、地位を示す襟章。かつての船乗りと、素材以外に変わったところがあるとは思われなかった。
 展望室中央のベッドの側まで来ると、軍人めいた仕草で一礼し、船長は報告した。
「航海は順調に進んでおります。すでに本船は減速しつつあり、タイタン管制を通過して二時間後にはトロイア・ステーションへ着岸します」
 女は静かに肯き、老人は一度まばたきした。
 老人と女が周囲を覆うスクリーンに目をやると、そこでは既に、土星が圧倒的なその偉容を示しつつあった。半球状の展望スクリーンいっぱいに、淡く黄色がかったその姿を見せつけている。
 赤道半径六万キロ。木星に次ぐ巨星惑星。
 この典型的な巨大気体惑星を、ありふれたものにしない要素。それは土星の淡い色合いでも、十八の衛星でも、あるいは軌道上のダイロス造船廠でもなく、千以上の細環が織りなす巨大なリングだ。その幅に比べてあまりに薄いリングは、まるでレコードのようで、上から眺めるとドイツの伝統的なお菓子のようにも見える。
 近づけば、そこは高重力と電子の地獄。
 しかしその恐るべき素顔の印象を補って余りあるのは、リングと、リングの傾きだ。見ていると、麦藁帽子をかぶった美女が首をかしげて笑っているように思えて、ふっと口許がほころんでしまう。
「巨人のバームクーヘンのようですわね」
 女は畏怖の念を込めて、しかし可笑しげに呟いた。
「そう言えば、閣下は今まで土星へおいでになったことは……?」
「いや、今回が初めてじゃ。そして最後でもあろう。この光景を見ることが出来ただけでも、ここまで来た甲斐があったといえるやもしれんな」
「そうですね。本当に──」
 その量感とスケールはあまりに圧倒的で、人間の想像などはるかに凌ぐ。
 しばらくの間、展望室には沈黙が流れた。
 その沈黙を破ったのは、女だった。
「船長、聞いての通り、閣下は土星は初めてなの。だから、あの名高いタイタンの雪を見たこともないでしょう。どう、この展望室のスクリーンに投影できるかしら?」
「諒解しました。すぐに手配します」
 一礼して、船長は足早に展望室を出ていった。
「……タイタンに、雪が降るのかね?」
「そうですとも。閣下ともあろうお方が、ご存じないのですか? それは素晴らしい光景だそうですよ」
「雪か……。わしは若いころ、地球で幾度か雪をみた記憶がある。もっとも、十五にもならないころに軌道へあがったので、曖昧な記憶しかないのじゃが──」
 その時、展望室にどこからか船長の声が響いた。
「失礼します。ただ今、タイタンを捕らえました。そちらのスクリーンに投影します」
 船長の言葉が終わる前に、展望室は先程とは異なる場所に移った。
 いや、正確には、映像が切り替わっただけなのだが、半球体のスクリーンでは、位置そのものが変わったように感じられるのだ。
 スクリーンに投影されたタイタンは、今までと姿を変えた星空と土星を背景に、やや赤みを帯びた姿で、軌道を優雅に漂っていた。
「本船は減速を開始しており、これ以上タイタンに接近することはありません。また本船の展開スクリーン分解能では、これ以上の解像度をえることはできず、厚すぎる雲に阻まれて、タイタンの雪を撮すことはできません」
 船長はここで一呼吸おいて、言葉を続けた。
「そこでタイタン管制に連絡し、地表の映像を本船にリンクさせるよう指示しました。タイタン管制では、トロイア管制域に移るまで映像のリンクを続けてくれるそうです」
 船長の言葉がおわると、映像は再び切り替わった。
 その瞬間、女は息をのみ、老人は無言で大きく目を見開いた。
 ベッドとその傍らの女だけが、タイタンの大地に立っていた。

 そこは、分厚い雲に覆われた空、炭化水素の広大な海がひろがる世界だった。
 赤く、黄色く、土星の光に照らされた雲が、淡い燐光を放ちながら、長い昼が訪れる。
 未来永劫、降りしきるソリンの雪が、熔けることなく降り積もる茫漠とした赤い大陸。
 点在する巨大なクレーターは、炭化水素の水をたたえて、かすかに波打っている。
 そして、ごく希に、有機物とメタンの分厚い雲に切れ間ができて、その時こそ、地平の彼方に、あるいは水平線の彼方に、美しすぎる土星が優雅なリングを伴ってあらわれるのだ。十四億三千万キロもの彼方から射す母なる恒星の陽射しが土星を照らし、その輝きは雲間を裂いてタイタンの大地と海とを照らし出す。
 幾筋もの光の柱と、永遠に降り続くソリンの雪。
 それは、春日の射す書斎で、染料の落ちかけた古書を取り上げたとき舞い上がった埃が、世を去った父の残り香と共に、やわらかな陽射しのなかで踊り煌めくように。

 老人の心の中に、ひとつの風景がよみがえった。
 それは木組みの家に、ひとりの少年が窓辺に腰掛けている風景。
 かすかに鼻をつく木の香りと、キッチンから流れてくる優しげな母親の鼻歌。
 お昼時、窓の外は、雪が針葉樹林を彩っている。
 おだやかな冬の日差しと──そして、針葉樹の間から、父親が出てくる。
 窓辺に座る少年に、手を振って……。

 一瞬の回想は途切れ、老人の世界は再びタイタンへと戻った。
 父親、母親、生まれ育ったカナダの家。
 すべては一瞬のこと。
 老人のベッドのかたわらで、女が溜息混じりに、呟いた。
「なんて美しい……。でも、ここに、命はない──」 
 老人の、機械的に強化された耳は、しかしこの言葉を変換した。
「人の汚し得ぬ美……。かつてそれは、すべての場所に等しく存在したというのに──」

 そして長い昼が終わりを告げる瞬間の、あまりに壮絶なタイタンの夕景。真の美しさとは、人が目にしてはならないもの。人のこころを震わせ、その瞬間、人は真の美とは麻薬だと悟る。タイタンの夕暮れを知ったとき、真の美とは哀しみだと知る。一度その光景を瞳に焼き付ければ、二度と人は美しい景色など知ることはないだろう。
 真に美しい景色は、と問われた時、人は溜息とともにまぶたを閉じて、想い出す。
 長い昼と、長い夜の間の、星々にとってはあまりにわずかな時間。
 分厚い雲から射す燐光は光度を落とし、雲は赤みを増して大地を染め上げる。
 朱の大地、朱の雲、そして波打つ朱の海。
 もしもその時、地平の彼方の雲間から、土星がその美しい顔をのぞかせたなら、人は喜ぶべきなのか、あるいは哀しむべきなのか。深々と降りしきる雪のヴェールの向こうに、恥ずかしげに顔を見せる淡黄色の土星とその多重環。かすかな、絶妙すぎる傾きを広大な海に映して、ゆっくりと土星はしずんでゆく。

 命のないタイタンの景観は、老人にもうひとつの風景を想い出させた。
 それは、父とはじめて冬の森に出かけた日のこと。
 たくましい木々の幹の間を、父と歩いた時。
 雪は膝に届き、ときおり彼方の木々の枝から、重みに耐え切れずに滑り落ちる雪の音が聞こえる。少年の足元では、キュッキュと雪を踏みしだく音がする。
 父の広い背中を見つめて、少年は訊ねた。
「とうさん、この森にクマはいるの?」
 父は振り返り、そして悲しげに言う。
「いや、もうこの森にはいないよ。世界中で、クマがいる所は都市(まち)だけだ──」
 少年は何となく、ふーん、と答えて、また父の足跡を追ってゆく。
 大きな父の足跡を……。

 再び、老人の回想は途切れ、世界はタイタンに戻った。
 少年の生まれる遙か以前に、地上から姿を消したクマの姿が、老人の脳裏をゆったりとした足取りで横切ってゆく。そのクマの後ろを、二頭の小熊が、じゃれ合いながら追ってゆく。
 すべては、一瞬のこと。
 老人のベッドのかたわらで、女が溜息混じりに呟いた。
「わたしたちは、地球にこんな景色をもたらそうとしていたのですね。美しい、死の静寂がつつむ世界を……」
 老人の、機械的に強化された耳は、しかしこの言葉を変換した。
「危険は去ってはいない。全ての命に、等しく機会を与えること。わたしたちは、その責任を負っているのに──」

 沈黙がクル・スター号の展望室を覆っていた。
 タイタンと同様に。
 同時性の崩壊した宇宙にあって、しかし目の前の風景は、ごくわずかな時差で、タイタンの大地で起きていることだ。
 深々と降り続く赤みを帯びた雪。
 干満を繰り返す炭化水素の海。
 メタンとソリンの厚い雲。
 摂氏マイナス百八十度の大気。
 永遠に熔けることのない雪に包まれた大地。
 美しい、永遠に変わらない死の静寂。

 やがて、クル・スター号はタイタン管制域から、トロイア管制域へと移った。
 映像のリンクは唐突に途切れて、展望室はもとの心休まる冷たい宇宙へと戻った。
 しかし、タイタンの沈黙は展望室によどみ続けていた。タイタンが去った後も。
 どれほどの時が流れたのか。
 女も、横たわる老人も、一言も発することはなかった。
 スクリーンに、土星周回軌道上の無数の人工天体が映りはじめるころ、老人の傍らの小さな箱が、ついに沈黙を破った。
「──よろしい」
 女は、ハッと現実に引き戻された。
 老人の一語が、展望室に漂って、闇に溶けた。
「失礼、閣下、何と仰いまして?」
 老人は、ギョロと目を動かして、告げた。
「よろしい、と言ったのじゃ。儂は、一度だけ、自分の心に従うことにする。嬢ちゃん、あんたの要請を、受諾する」
「閣下──」
「そうじゃ。儂は地球軌道都市連合の第一市民として、あんたの要請を受諾する」
 女は、老人の言葉を噛みしめるように黙り込んで、それから長い長いため息をついた。
「閣下、わたしは──」
「いいや、何も言わんでもらいたい。儂も、もう何もいわん。ただ……」
 老人は、そこで黙り込んだ。
「ただ?」
「……あのタイタンの景色。お嬢ちゃんの、最後の切り札じゃろう?」
 女は、自嘲とも苦笑ともとれない、不思議な微笑を浮かべた。
「閣下、長生きは、必ずしも心の老いをもたらすとは限りませんね。その証明のような方が、ここに──」
 老人の傍らの小箱からは、何も聞こえてこなかった。ただ、老人の唯一自由になる器官である目は、穏やかに笑っていた。



 こうして、西暦2398年12月25日、タイタンの降りしきる雪の中で合意は成立し、西暦2400年、地球封鎖が実行された。







注:
<アドニス条約>
 史上有名な「エリダヌス協約」の前身。基本的にはエリダヌス協約とほとんど変わらない。ただし加盟国は圧倒的に少ない。
 ちなみに、第一条は人間について規定し、第四条は天体の定義と、天体の民間所有を禁じている。

<ダイロス造船廠>
 土星の軌道上につくられた造船所。小衛星を核とする巨大な施設。2312年、都市船<ジング>もここで建造された。

<トロイア>
 2271年、土星軌道上に造られた最初の軌道都市。学術・観光を主体とする。

<環太陽>
 正確には「環太陽共和国」。第一から第九まで、九つの国家がこの名称を採用している。そのため、それぞれを、環太陽第○共和国として区別する。ただし、この九ヶ国は議会組織を共通しているため、「環太陽」と総称することがある。
 この国家群は、もともとは太陽近くに建設された半物質精製プラントだったが、後に独立政体となった。そのため、前光速時代には大きな影響力を誇った。

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