『なごり桜』

 

 四月も半ばを過ぎて、大学のフェンス沿いにつづく桜並木の桜もだいぶ散ってしまった。
 アスファルトの上に散った薄桃色の花びらが、春風に吹かれて渦をえがく。
 このころの、薄紅色の若葉と淡い花びらが混じり合う、なごり桜が大好きだ。
 風がそよぐたびに、ほろほろと桜は散ってしまうけれど、若葉はしだいに色を変えて、若草色に染まってゆく。
 この大学に行くと決めてから色々なことがあったものの、それでも入学式を無事に終えて桜並木の下を歩くとき、想い出すのはあの時のことだけ。
 ふと足を止めて、キョロキョロと辺りを見回す。
 誰もいないことを確かめると、とりわけ立派な桜に歩み寄り、その節くれだった黒い幹に、そっと手を当ててみた。
 太い桜の樹皮のザラつく質感が、今では薄らぎかけたあの時の想いをくっきりと浮かび上がらせる。
 
 彼女は中学二年の春に、満開の桜の下である男の子に告白された。
 そこは、明治維新とそれに続く新しい時代の到来により、取り壊されてしまったある城跡だった。どうにか当時の姿をとどめているのは、ガッチリとした石垣だけ。壮麗な御殿も、優美な天守閣もすべて取り払われて、残った広大な跡地には桜が植えられた。
 春、満開の千本桜の下を歩く人々の中には、多くのカップルもいる。
 そんな場所に呼び出されて、何を言われるかくらい、はじめからわかりきってる。
 そして、今の彼女がその少年にどういう答えを告げるかも。
 陽気にさそわれた人々が連れ立って歩く場所をさけて、少し人影がまばらな場所で、少年は訥々(とつとつ)と切り出す。
 少年の頬は、天蓋のように二人をつつむ桜と同じ色に染まっている。
 二人は共に俯きがちで、けれど二人からただよう気配はまるで違う。
 少年は、期待と不安とが混じり合い、ぽつぽつと、しかしとにかく自分の想いを伝えようと必死だ。けれども彼女は、どこか諦めとも寂しさとも言えそうな表情をして、ともかく少年の必死の言葉をジッと聞いている。
 やわらかい風がスッと走り抜け、咲き誇る桜の花びらを空へと散らす。
 舞い上がった無数の花びらがそっと地面にふれたとき、そこにはもう少年の姿はなく、ただ彼女が一人きり、そっと桜の幹にもたれ掛かっているだけだった。

 どのくらいの間、桜に手を当てたままあの頃の想いに浸っていたのだろう。
 気が付いてあたりを見ると、講義を受講し終えた学生達が何人か、こちらに向かって歩いて来るのがみえた。
 慌てて、桜の幹から手を離し、何喰わぬ顔をしてまた歩き出したけれど、表情はどこか柔らかい。
 あの頃、本当に好きだった子からではなく全く別の人から告白されて、結局断ってしまい、そのことで自分を責めたこともあった。
 好きな人に嫌われるのが怖くて告白出来ないくせに、勇気をふりしぼって好きだと告白してくれた人を拒絶した……。
 桜並木の終わりまで来て、立ち止まって振り返る。
 なごり桜の下をたくさんの人が歩いている。あの中に、恋人同士はどのくらいいるのだろう。そして、一度も失恋をしたことの無い人はどのくらいいるのだろう。
 演歌の歌詞ではないけれど、人生は桜の如く、春が来るたび咲き誇り、春が去るたび舞い散って、けれど夏には青々と、緑濃い葉を繁らせる……。
 今では、自分を責めて恋愛に臆病になっていたあの頃も、いい思い出になった。あの頃は、ただ冬枯れ時だったのだと、今はわかる。もし今の恋を失ったとしても、緑濃い夏、寂しい冬をへて、また春は来ると。
 だから、薄紅色の若葉と淡い花びらが混じり合う、このころの名残桜が大好きだ。

 

 

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