『背中』

 

 新歓コンパの二次会。
 「豆蔵」で初めて彼女の顔をみて、しかしその時は別に何とも思わなかった。
 四回生の先輩が乾杯の音頭をとって、ぎこちなくはじまった二次会も、酒で勢いがつくとたちまち和やかな、というより騒々しいものに変わった。
 新入生に、自分の所属しているサークルを売り込む者、目を付けている女の子にやたら酒をすすめる不届き者、学科の単位取得について親切に教えている者、教授連中の愚痴をこぼして鬱憤晴らしをする者、それこそ様々で、こうしたとき人間性は暴露される。
 店内の騒々しさは一度に倍増して、隣のヤツが話していることさえよく聞き取れない。
 ふとみると、新入生の女の子がひとり、やたらと調子よく飲んでいる。
 ビールを一杯飲んだだけで頬に赤みを帯びているヤツが、あんなピッチで飲んでちゃあ、すぐにつぶれるぞ。初めての飲酒で、自分の限界を知らないんだろうが……。
 自分が一回生だった頃を想い出して、思わず苦笑がうかぶ。
 何時頃だっただろうか、たしか三度目の席替えをしたときだったと思う。
 となりに彼女が座った。
 顔は真っ赤で、目つきは完全に酔いが回っていることを示している。
 おい、あまり飲み過ぎるなよ、と声をかける。すると彼女は不満そうに、酔ってませんよ、先輩こそ全然飲んでないじゃないですかぁ、とかなんとか言って、俺が持っていたジョッキになみなみとビールを注いだ。
 こういうとき、断ってはいけない。注がれたぶんを飲んで見せなくてはいけない。それが、まあ一種の不文律だ。
 俺が注がれたビールを飲み干してみせると、彼女は満足げにほほえんで、先輩はお酒つよいんですねぇと、呂律の回らない口調で笑う。
 しばらくして、どこかの馬鹿がとうとうイッキコールをはじめた。
 イッキは急性アルコール中毒に陥る可能性が高い。全国で、何人も命を落としている。だから毎年この時期には、大学側からイッキ禁止の通達が出るのだ。
 しかし二次会に先生たちはおらず、全員多かれ少なかれ酒がまわっている。
 イッキコールが出るのも時間の問題だろうな、とは思っていた。
 しかし、まさか彼女が、すっくと立ち上がって学籍番号と名前を叫び、大ジョッキになみなみと注がれたビールをイッキのみするとは想像もしなかった。
 おい、大丈夫か、と声をかける間もなく、彼女はその場に倒れ込んだ。
 なんとも、幸せそうな間抜け面をさらして。

 最終的に、彼女を送っていく役は俺にお鉢がまわってきた。
 名簿に記載されていた彼女の住所が、俺のアパートの近所だったからだ。
 タクシーに乗っている間も、結局彼女は起きなかった。
 まあ、「豆蔵」のトイレで一度全部吐いたそうだから、心配ないとは思うが……。
 俺がそんなことを考えている間に、タクシーは俺のアパートの前に停まった。
 料金を支払い、彼女を揺り起こそうとするが起きる気配もない。
 結局、タクシーの運転手に手伝ってもらい、彼女をどうにか背負うことが出来た。
 走り去る黄色いタクシーを見送って、胸ポケットから住所を書いたメモを取り出し、それを頼りに歩き始めた。
 俺が一歩二歩と進むたびに、彼女の腕は右へ左へと揺れ動き、歩きづらいことこの上ない。
 まあ、近所だからいいか、彼女を玄関に放り込んで、それで仕事は終わりだ……。
 そんなことを考えながら、百メートル、二百メートルと歩を進める。
 ところが、いくら歩いてもメモにあるアパートは見つからなかった。
 月明かりのした、女の子を背負って静かな夜の街を彷徨う男。
 しかし、女の子が酔いつぶれて酒の香をプンプンさせているとなれば、色気も風流もあったモノじゃない。
 俺が、ぶつくさ言いながら歩いていると背中で、んぅ、という溜息混じりの声がした。やがて、背中でモゾモゾと彼女が動いているのがわかる。
 やれやれ起きたかと、ほっとする俺の期待に反して、彼女は起きなかった。
 なんてこった、結局背負ったままで探すのかよ……。
 と、今までだらんと垂れていた彼女の腕があがって、俺の首にまわった。
 俺の肩口に顔を埋めて、彼女はすんすんと鼻を鳴らす。
 彼女の髪の毛が俺の頬をくすぐり、首筋に息吹を感じる。
 そして彼女は、俺の首にまわした腕にきゅっと力をこめた……。

 それが、俺と彼女の出逢いだった。
 まったくロマンティックなものではなかったにせよ。

 

戻る