大学に合格して郷里を離れることが決まったのは、まだ肌寒さが残るある日の午後だった。
さっそくその翌日から、少しずつ部屋の整理を始めた。
十八年ものあいだ暮らし続けたアパートの一室。
南に向いた窓から、初春のやわらかな陽光が射し込んで、モノを動かすたびに舞い上がる埃がキラキラとゆらめいた。
本棚の前に立ち、どれを下宿に持って行こうか悩んでいると、一冊の本の背表紙に目が留まった。
受験勉強に追い立てられたこの一年、ゆっくりと本を読む暇などなかった。
思わずそれを手にとって、その場に座りこんだ。
『我らの時代』、E.ヘミングウェイ著。
短編集を読むとき、まずは目次に目を通すのが癖だった。気にいった題名から読み始めるのが好きだった。長編小説にはない、これが短編集を読む醍醐味だと。
印象深いものや、かすかにしか憶えのないもの。題名を見ても、何も想い出さないものもある。
つらつらと眺めていくうち、ある題名に目が留まった。
『雨のなかの猫』
言いしれぬ懐かしさが、胸を突いた。
百二十五頁から百三十頁まで、わずか六頁の小品。
けれど、大事な何かがそこにある。忘れてはいけない何か。憶えていなければいけない、何か。
そんな気がして、パラパラとページを繰る。
百二十五頁は、すぐに見つかった。しおりのように、何かが挟まっていたからだ。
そこには、古びた写真が一枚。
写っているのは、少年と少女に猫一匹。
忘れてはいけないこと、憶えていなきゃいけないこと。
けれど、受験に追い立てられた一年のあいだ、すっかり忘れていた。
あのころは今よりずっと子供だったけれど、本気だった。
好きで、大好きで、でも言わなかった。
言ったら、友達でいられなくなる。
それがなにより怖かった。だから、言えなかった。
いま浮かぶのは、この部屋で二人と一匹がじゃれ合っている情景だけ。
高校進学の際に離ればなれになって以来、一度も連絡をとっていない。
「オレは、『雨のなかの猫』が一番好きだな」
想い出すのは少年のこの言葉と、霧雨のなかに浮かぶレストラン。
テラスのテーブルの下には、臆病な猫が一匹、寒そうに小さくなってふるえてる。
だから、この写真はここにあって、想い出されることもなかった。
眺めていた写真を元に戻し、その本を本棚に戻す。
しばらくのあいだ、背表紙をじっと見つめた。
『我らの時代』
やがて、一度大きくのびをすると、電話をかけるために部屋を出ていった。
懐かしい友の、懐かしい声を聞くために。
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