五月雨を さけて本屋で ひとやすみ──。
どうみても佳い出来とは言えないな……。
俺は思わず苦笑いをうかべた。
そとは、あきれるほどの驟雨。
沛然たる、という言葉はこういう時に使うんだろうな……。
「日本語の美─俳句・短歌─」という講義をとって以来、頭の中に自然と俳句だの短歌だのが浮かんできて、どうにも困ってしまう。
われながら、ジジくさい……。
俺は本屋の軒先でひとり苦笑をうかべて、通りを見る。
突然の雨で、道行く人々もあわてているようだ。
鞄を頭の上にかざして自転車を漕ぐ女子高生。用もないのにコンビニに駆け込む主婦。駅に向かって猛ダッシュするサラリーマン。ここまで濡れたら急いでも同じと、何やら達観した様子の若者達。雨のなか、はしゃぎまわる小学生。
俺は空を見上げて、しばらく熄みそうもないと見極めをつけた。
本を買う気もないのに店内にいては迷惑かと今まで軒先にいたのだが、いつまでもここでぼんやり空模様を眺めているのもバカらしい。
俺は結局、自動扉をくぐって、店内に入った。
店内には多くの客がいた。客というよりも、雨をさけて立ち寄った人々というのが正解だろう。
普段、この本屋にこれほど客がいるのを俺は見たことがなかった。
本棚をながめながら、ぶらぶらと歩く。
今すぐ読みたい本があるわけじゃないしな……。
そんなことを考えながら、背表紙の列をながめる。
何か、時間つぶしになるような本は……。
俺の足は、外国文学の棚の前で止まった。
『麗しの皇妃エリザベト──オーストリア帝国の黄昏』
淡いピンク色の背表紙の、やたら分厚い文庫本。
雨が熄むまでのあいだ、暇つぶしに読むには大作すぎる。
けれど、俺はその本を手に取った。
表紙には、うるわしい皇妃の絵姿。
美の権化、悲劇のひと、旅する皇妃、才気あふれる乙女、なにより謎に満ちた人物……。
俺は、テレビ番組の特集か何かでこの皇妃のことを知った。
その時の印象は、銀河鉄道999のメーテルそのまま、というものだった。
喪服のような黒衣を常にまとい、列車で旅から旅の日々を送る麗しい皇妃……。
俺はいつの間にかその本に引き込まれ、店内の喧噪を忘れた。
ちょうど、エリザベトが八頭立ての馬車で新郎のヨーゼフとシェーンブルン宮についたころ、俺の意識は本屋の中に戻った。
店内の喧噪は先程とあまりかわっていない。
ふと、となりを見ると女性が立っている。
俺はあわててその場から移動しようとした。
本を探しているのなら、俺がジッとその場にいては邪魔になると思ったからだ。
しかし、その女性は別に本を探しているわけではなく、俺と同様に立ち読みに勤しんでいるだけだった。
俺は、その女性の頭に目をやって、思わずプッと吹き出しそうになった。
おそらく、俺と同様に突然の雨をさけて本屋に入ったのだろう。
そして、本に没頭するうちに、頭にのせた白いハンカチを意識からしめだしてしまったのだ。ぴっちりしたジーンズに、ゆったりした白のTシャツ、そして黒髪の上には濡れたハンカチ。
どこの間抜けだ、おい……。
そう思って顔をうかがった俺は、また吹き出しそうになった。
真剣な表情で本に集中する若い女性は、新歓コンパの時に俺が家まで背負って行った彼女だったからだ。
何を読んでいるのか、何となく気になった俺は、身を屈めて彼女の持つ本の表紙に目をやった。
『オデッサ・ファイル』
F・フォーサイスの作品だ。
取材力と筋立てのうまさには定評のあるスパイ・スリラーの旗手。
しかし、本を見る限り、完全に男女が入れ替わってるな……。
そう思って苦笑をうかべると、彼女もあやしい動きをする俺に気が付いた。
となりに居るのが俺だとは知らなかったらしく、俺をみて驚いた表情を見せる。
やや遅まきながら挨拶をかわし、それから互いの本のタイトルを見て笑った。
どのくらい二人で立ち読みをしていただろうか。
気が付くと雨は熄んでいて、あたりには夕暮れの気配がただよいはじめていた。
俺達は、なんとなく一緒に外に出た。
二人とも読みかけのままでは帰れず、といって読み終えるには大作すぎて、結局『麗しの皇妃エリザベト』と『オデッサ・ファイル』を買ってしまった。
してみると、本屋というものは雨の日、それも傘など用意できない驟雨の方が儲かるのかもしれない。
俺は、それじゃあと告げるべく挙げかけた手を、途中で止めた。
よく考えてみれば、自宅は二人とも同じ方向にある。
俺達は、雨の匂いのする道を、二人並んで歩きはじめた。
家路を急ぐ人々の間に、幼い女の子の姿が見えた。
その子は大きな花束を両手で抱えて、母親と並んでよたよたと歩いている。
母親が、替わろうと何度言っても、その子は頑として聞かない。
花束からは、赤、白、薄紫のあざやかな色がのぞいている。
何の花だろう……。
そう思った俺のこころを見透かしたように、隣を歩く彼女が花の名前を教えてくれた。
梅雨葵(つゆあおい)──。
耳元でそうつぶやく彼女の、意外に女の子らしい一面に驚きながら、俺の頭にはまたしても一首浮かんでしまった。
梅雨葵 そうつげられし 宵の口 あめのにおいと 吐息の香り──。
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