『夜』

 

 流れてゆく無数のテールランプ。
 まぶたの裏に残像を焼き付けるヘッドライト。
 俺は何をするでもなく、歩道橋の欄干に頬杖ついて、ビルの谷間を流れていく光の奔流をながめていた。ひたすら整然と、倦むことなく流れつづける光の河。
 ふと、視線を上げると、高層建築群の彼方に、ほの白い満月が茫とうかんでいた。
 のたくったようなネオンサイン、鮮やかな原色の文字列が壁面を彩る。
 光の河と、光の峡谷。
 峡谷の河面ちかくに架かる橋。そこから見上げる夜空はあまりに狭く、ほのかな燐光を発していて、星は見えない。
 この時間になっても、車の波は途絶えることを知らない。
 排ガスのにおいが鼻をつき、かすかな金属の味が、くちのなかに広がった。
 この都市の、夜のにおい、闇のにおい。
 夜と、闇に包まれることを拒絶する人々のせめぎあい。俺はそのまっただ中にいて、ただ立ちつくしていた。
 歩道を歩く人々は、車列と同様、途絶えることがない。
 歩道橋の上をわたって行く人々は多いけれど、立ち止まる人などいない。皆一様に、ただ、ただ、せわしなく足早に通りすぎていくだけ。
 光が流れ、人が流れる。
 顔の見えない人々の流れに、とりのこされた様な寂しさと切なさを感じてしまう。
 時が経つほどに、人々の声も、ざわめきも、意味もなくながれてくる音楽も、耳から遠くなっていった。
 流れに取りのこされた小石のように、光と人とが周りを通り過ぎていく。
 おなじパターンを描き続けるネオンサイン、とぎれることなく続く車列、明滅する光の奔流、個々を区別できない人の波。
 それらは、繰り返し、繰り返し、人を惑わせ、幻惑して、まるで透明な存在になったような錯覚に陥れる。
 五感は絶え間なく脳へと情報を送り続け、こころは幽明境をさまよう。
 ふと、隣に人の気配を感じて、俺は一気に現実へ引き戻された。
 ざわめきが聞こえはじめ、光の奔流は再び流れだし、排ガスのにおいが鼻をつく。
 気配のほうへ眼をやると、瞳に無数の光輝を映した女性が、同じように頬杖ついて光の河をながめていた。
 その女性が誰かは、すぐにわかった。今の今まで待っていた相手だ。わからないはずがない。彼女に声を掛けようとして、喉まで出かかった言葉をなぜか飲み込んだ。
 幻惑されたように、じっと光の奔流をながめる彼女。
 さっきまでの俺も、きっとこんな雰囲気だったのだろう。
 先に来ている俺に気が付き、声を掛けようとして、いまの俺のように声を掛けられず、なんとなく横で同じように景色をながめることにしたのだろう。
 俺は傍に彼女が来ていることも知らずに、けれども彼女と同じ世界を見ていた。
 そう思うとうれしくて、こみ上げてくる笑いの衝動を抑えられなくなった。
 俺の低いクスクス笑いに、魅せられたように光の河をながめていた彼女は、ハッと現実へと引き戻された。
 俺と彼女の視線が絡み合う。
 いたずらを見咎められた子供のように、互いにすこし恥ずかしそうな苦笑をうかべた。
 それから、俺達は人の流れに加わり、雑踏のなかへと戻っていった。

 

戻る