『失楽園』(上・下)
ジョン・ミルトン著/平井正穂訳/岩波文庫/上・下:720\
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一敗地に塗れたからといって、それがどうしたというのだ?すべてが失われたわけではない……!
至高者たる神に背き、堕天となって、この世の果ての暗黒の中へ堕とされた大天使。永遠の生命を持つが故に、未来永劫、苦界にあって荊棘の中で苦しみ続ける罰をうけたサタン。
しかし彼は、傲然と、なお全能者とその息子に次ぐ大いなる威を示しながら、麾下の堕天使の軍団を叱咤する。
かつて栄光と光輝に包まれていた彼らに、これほどの苦しみと屈辱を与えた神への復讐はいかにして成されるべきなのか……?
激しい焔を吹き上げ、焼け爛れた肌を氷らせる凍てつく烈風の吹き荒ぶ地獄の大地。その大地の上で、堕天使たちは群れ集い、討議を開始した──。
この物語は英国の作家・詩人であるジョン・ミルトンによって1667年に発表された、聖書の「創世記」をもとに書かれた壮大な叙事詩です。
作者であるミルトンはそれこそ波瀾万丈の人生を送った人物で、一度は死刑の宣告まで受けたほど。彼の略歴を書くだけでも一冊本が書けてしまうことでしょう。だから、ここでは彼の生涯には触れません。
この物語には、その深い思索と壮大な内容のため、無数の解説・論評がなされてきました。特に、著者の人生や時代背景(清教徒革命など)との関わりからです。
けれども、まだこの物語を読んだことのない方、どうか難しく考えないでほしいんです。
物語に潜む深い哲学的思索とか、隠喩・暗喩、あるいは神学論など、一切無視してかまいません。
何よりも、これは叙事詩であり物語であって、天上と地獄、神と人と堕天の織りなす壮大なファンタジーと考えてしまいましょう。流麗な筆致と凄まじい想像力が生みだした、史上希にみるファンタジーの傑作だと。深い思索は、楽しんだ後でも全然構わないですものね。
この物語の魅力は、何と言ってもその視点。
堕天使サタンの目線で語られる物語など、当時の人々には考えることも困難だったのではないでしょうか。実際、この物語はあくまでも絶対者たる神や天上の栄光を讃え、堕天使サタンとその一党を悪と断じつつ、サタンの目線で物語をすすめることで、読み手を物語深くに引き込み、読み終えた時に読み手が浄化と希望を得ることができるように書かれています。
けれど、この物語を読むたびにわたしは思うのです。
悪ほど魅力的な主役はない、と。
強大であればあるほどに、悪はその魅力を増すような気がしてしまうのは、わたしだけでしょうか?コセコセした小悪にはただ嫌悪と不快を感じるだけです。
ひとりを殺せば犯罪者、千人を殺せば英雄
この言葉は、わたしとは全くことなる意図(つまり反戦)で語られたもので、現実においてこの言葉が真実であり、わたしたちが胸に刻んでおくべきものであることは明らかです。
しかし、物語のなかではどうなのでしょう?
物語における巨大な悪は、特にこの物語では、その巨大さ故に魅力的に見え、その野心と目的の壮大なるために崇高にさえ感じられ、そして必ず敗れ去るさだめにあるが故に切なさすら感じられるように思うのです。
──人間よ、恥を知れ、とわたしは言いたいのだ!呪われた悪魔でさえも、悪魔同士で固い一致団結を守っているのだ、それなのに、生けるもののなかで理性的な人間だけが、神の恩寵を受ける希望が与えられているにもかかわらず、反噬(はんぜい)しあっている。
神が、地には平和あれ、と宣うているにもかかわらず、互いに憎悪と敵意と闘争の生活にあけくれ、残虐な戦争を起こしては地上を荒廃させ、骨肉相食んでいる始末だ──
ミルトンは、堕天使たちを悪の権化、おぞましい存在として描いていますが、しかしこんなくだりを読むとき、この人は単なるキリスト者ではないと感じます。
いったいこの人は悪魔を賛美しているのか、とさえ思うくだりもあったりして。
もちろん、本当に悪魔を賛美しているのではないわけですが、しかし人を悪魔にもおとると断じるあたり、ただものではないと思ったりします。特にこの叙事詩が書かれた時代を考えると。
繰り返しになりますが、どうかまず手にとってみてください。難しく考える前に、読んでみてください。格調高い文章ですが、読みやすい現代語訳です。
読み終えた時には、きっと「面白かった」と感じてもらえるものと思います。
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