◎エンターテイメントの部屋◎

ここでは、エンターテイメント小説に分類される(と、塩野が思う)本の中から、

塩野泉のお気に入りを紹介します。


『剣客商売』
池波正太郎/新潮文庫

 池波さんの書かれた多くの作品のなかでも、わたしはこのシリーズが一番好きです。
 もちろん、『藤枝梅安シリーズ』や『鬼平犯科帳シリーズ』、『雲霧仁左衛門』も大好きで、だから一番を決めるのはとても難しいけれど、やっぱり『剣客商売』を一番に押してしまう。
 わたしがはじめて読んだ池波作品がこれだったからかもしれないけど。

 池波さんの作品全てに言えることは、文章がとにかくいい!
 よく「映画的」と評される、あの独特の文体。
 作者名を伏せられたままで読んでも、すぐにわかるほど特徴的なんです。

 それに、出てくる料理の美味しそうなこと!
 『藤枝梅安』に出てくる、ハゼを煮浸しにして食べるシーンとか、ホントにヨダレが出ちゃいそうなくらい美味しそうで!『剣客商売・包丁ごよみ』を買って以来、載ってる料理を季節に合わせて作るのが楽しみのひとつになってしまったほど。

 そう、季節感とか文章からただよう気配が、色っぽいと言おうか、なんとも言えない良さがあって。
 だから、普通の作家が書くと単にグロテスクで下品な情交のシーンも、池波さんが書くと、そこには品というか、とにかくそこはかとない色気と品のよさがあって、ため息をつきながら作品世界にひきこまれてしまうんです。
 それに、ストーリー展開のうまさでは、日本でも五本の指に入ると思う。

 剣客商売について言えば、魅力的なキャラクターも忘れることはできません。
 主人公は、秋山小兵衛。名前の通り、とても小さいけれども、剣術の達人で、世の中の酸いも甘いも知り尽くして、鐘ヶ淵に隠棲する老人。融通無碍と言おうか、ともかくオトコならきっとこういう年寄りに憧れるだろうな、という感じの老人なんです。
 その小兵衛の息子、大治郎。剣術使いで、朴念仁で、でもすごくいい若者。
 さらに、小兵衛が手をつけた下女のおはる。優しくてしっかり者で、喋り方もかわいい。
 小兵衛に情を寄せる女武芸者、老中田沼意次の側室の娘、三冬。強くて、美しくて、世事に疎いところも魅力的。
 四谷・伝馬町の御用聞きである弥七と、徳さん。(塩野は弥七・徳さんファンらしい)
 ほかにも、数多くの魅力的なキャラクターたちが、小兵衛・大治郎親子を中心に動き回るという、まさしく「これぞ、エンターテイメント!」とでも言いたくなる作品なんです。

 読みやすくて、しかも読み始めると次が読みたくなって止まらないという、受験生泣かせのシリーズです。(実際、受験の時は誘惑に打ち勝つのに大変だったのよ、ホント)
 ぜひお薦めしたいシリーズ。(池波作品は全部お薦めしたいけど)


『オデッサ・ファイル』
フレデリック・フォーサイス著/篠原慎訳/角川文庫/740\

 歴史上、大規模な殺戮や虐殺というものは、枚挙に暇がないほど行われてきた。古代中国しかり、新大陸の原住民の虐殺しかり、日本の中国に於ける三光作戦・南京大虐殺しかり、原爆投下しかり。

 しかしながら、第二次世界大戦中のナチスドイツほど徹底した、計画的な、「絶滅を目的とした」民族浄化という大虐殺を、私たちは他に知らない。多くのドイツ国民でさえ、身近にいたユダヤ人たちが連れ去られた後、どこでどうしているのかを知っていた者は少なかったという。そして戦後、ドイツ人は自らの知らないところで行われていた凄まじい虐殺の事実に衝撃を受けたのである。

 ところが、こうした虐殺や殺戮の事実を知っていた人々もとうぜん存在した。ナチスドイツの中枢にあった人々、つまり軍上層部、一部の高級官僚、それにもちろん絶滅収容所で作業にあたっていた人々である。SS(ナチス親衛隊)もこうした「知りすぎていた」人々の範疇に入るだろう。

 彼らは知っていた。ドイツが戦争に負けつつあることを── 一般市民の多くは知らなかった。大本営発表のように、ゲッペルスをはじめとするナチスの宣伝を信じていた──そして、ユダヤ人(と、一部の戦争捕虜)を組織的に、計画的に、機械的に、「絶滅」させるべく虐殺を行っていることを。

 彼らは恐れていた。戦争に敗れ、史上空前の大虐殺が世界の人々の前に明るみになった時、自分たちがどのような運命を辿ることになるか、彼らはイヤになるほどよくわかっていた。
 そこでSSの高級将校たちは、戦後彼らの身を守り、安全に逃亡せしめ、復興ドイツに潜り込んでSSへの反感を「和らげ」、ドイツの政党や産業界に食い込む、そうした目的のためにある組織を作りあげた。それがオデッサ(ODESSA/Organisation Der Ehemaligen SS Angehorigen/元SS隊員の組織)である。


 本書は、ルポライターのミラーが、ある独居老人の死と遭遇するとこからはじまる。その老ユダヤ人の日記には、驚くべき事実が記されていた。そこには、虐殺収容所の所長、リガの殺人鬼と異名をとったロシュマンが生きていると記されていたのだ。
 ミラーは直ちに追跡調査に乗り出すが、思いもかけない妨害が彼を待ち受けていた。それがオデッサであり、やがて組織の黒い手はミラーの身辺へと忍び寄り──


 『オデッサ・ファイル』は、1971年、処女作『ジャッカルの日』で全世界に衝撃を与えたフレデリック・フォーサイスの第二作である。元ロイターの特派員というフォーサイスの作品は、綿密な調査と圧倒的なストーリー・テリングとで読む者を引き込まずにはおかない。どこまでが事実で、どこからが虚構なのかわからない程、徹底した調査に裏打ちされた作品なのである。

 事実、あまりにリアルな内容のため、フォーサイス自身に注目が集まることもままあって、ある作品の調査のためにヨーロッパ某国の裏の武器市場にいたとか、アフリカ某国のクーデターを助けるためにタンカーに大量の武器弾薬を積載して送り出し、途中臨検で発覚したとか、そういう噂が── 一部事実ともいわれるが──絶えないのだ。

 さてこの作品だが、スリリングで緊張感にみち、読み出せば夜眠れなくなること請け合い、と常套句を羅列すれば、それが全てを語るだろう。スリラーを紹介するのに、内容をばらすことほど間抜けなことはないのだから。
 ただ、この小説がどれほど凄まじいものか、次のエピソードを紹介することでわかっていただけるかと思う。

──八月の寒い朝、フィテリコ・ベグネルという老人が心臓発作を起こし、病院に担ぎ込まれ、後に死亡した。遺留品などから逃亡中のナチス戦犯ではないかとの疑いが持たれ、ICPO(国際刑事警察機構)からの捜査資料とつき合わせたところ、指紋や歯形などからロシュマンであることがこのほど判明した。ロシュマンはベルリン陥落直前に姿を消したが、その捜査劇は世界的なベストセラー『オデッサ・ファイル』に詳しい。ロシュマンの遺体を検視した解剖医は次のように語った。
『あの小説の中で、ロシュマンはアルプス越えの際、凍傷で足の指を失ったと記述されているが、それは事実だった』

(1977年11月7日付朝日新聞 パラグアイからの特派員電(あとがきより抜粋))

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