◎辞書・事典の部屋
ここでは、辞書・事典に分類される(と、塩野が思う)本の中から、
塩野泉のお気に入りを紹介します。
『噴版・悪魔の辞典』 アンブローズ・ビアスという作家をご存じだろうか? [遺伝]:親の形質がある確率をもって子孫に伝わるという、知らない方がよかったと思われる科学的見解。 [浮気]:今まで男性にしか手を出さなかった男性が、女性にも手を出すようなこと。デートの古語。 [英雄]:遠くにありて思うもの。 [学者]:例えば足の裏だとか、大便後のおしりのふきかただとか、まさか、こんなことをと思う分野にも、かならず、ひとりかふたりは存在する識者。 [家族]:@もっとも身近な敵。Aもっとも身近な味方。 [求婚]:「ねえ、きみとの関係を国に届け出ようよ」と迫ること。 [警察]:かなり身勝手に振る舞う点でどちらかといえばネコに似ているのに、どういうわけかイヌになぞらえられることの多い国家機関。 [結婚]:国に届け出た性関係。 ……こうして、「あ」から「ん」まで、延々三百十五頁にわたって続くのである。 |
『妖精事典』 辞書・事典と聞いて、アカデミックで無味乾燥な、冷酷なまでに客観的な、そんな他の事典とこの本を同一視するのは、明らかに間違いです。 著者のブリッグスは妖精研究のまさに権威中の権威ではあるけれど、従来の冷たい学究的なアプローチを採らず、独特な、とても個性的なアプローチで知られる人なのです。この本を読めば、彼女のそんな側面をしっかりと感じとることができるでしょう。 この事典は、どこから読み始めても良いのです。ちょっとした時間のあるとき、寝椅子に寝ころんでこの辞典のどこでもよいから開いて読み始める、すると項目から項目へと、まるで精妙可憐な蜘蛛の巣のごとくに張り巡らされた言葉の網のなかで、時が過ぎるのを忘れてしまいます。 そうそうたる顔ぶれの訳者四人が、ブリッグスの「うっとりさせる文体」(ニューヨークタイムズ評)を損ねないよう苦心を重ねつつ十年以上の歳月をかけて翻訳しただけあって、味気なさとはほど遠い、とてもゆたかな味わいをもった本となっています。なんと言っても、時折あらわれる詩と小話は、じつに詩情豊かな興味深いものばかりです。 差し挟まれる挿し絵・口絵の数々も、全体の雰囲気を損なうことなく、時には不気味に、時には華麗に、そして時には愉快に読み手へと迫るものばかり。 ちょっと値段が高い本だけど、ぜひ読んでみて欲しい一冊です。 |
『世界文学に見る架空地名大事典』 地図を見る楽しさを知っている人は、その地図に世界を見る、と言います。二次元の薄い紙切れに書かれた、無数の記号、地名、曲線、直線。二次元の図を眺めながら、その世界にいるかのような楽しみを覚えるそうです。 地図を見ても別におもしろくない、という人もいるにはいます。そうした人は、たとえば美しい図版入りの旅行ガイドとか、ツアーのパンフレットとか、そうした視覚的な記事を眺めることで、その世界を頭の中に再構成できるでしょう。 上記いずれかに該当する人は、ほぼ確実にこの事典を楽しめる方です。ただし、読んでいる間に記載された場所へ行きたくなったとしても、責任は負えません。なにしろ、記載された全ての地名はどこにもない場所、あるいは人の心の中にしかない場所なのですから。 バベルの図書館、アースシー、中つ国、ナルニア、ムーミン谷、ラピュータ、類推の山、オズ、ジョリギンキ、眠れる森の美女の城、ネヴァーネヴァーランド、ノーチラス港、アトランティス、シャングリラ、新スイス、世界と世界の間の林、ソロモン王の洞窟、宝島、ニュートピア、円環の廃墟の国、グリムパルト大公領、猿の都、カロールメン、カラス・ガラゾン、マーリンの墓、ユートピア、竜の道、バックの郷、北風の後ろの国、エメラルドの都、クリスチャンの国、虚栄の市── この事典には、上記以外にも千二百以上の項目、つまり地名が記載されています。また作者と出典の索引もあります。ただし、検索できる地名は基本的に地球上にある(若しくは、あると思われる)土地に限定されています。 たとえば、以前読んだ本に出てきた地名をひいてみたり、暇つぶしにパラパラとページを繰ったり、そうして目に留まった場所の記事を眺めてみる。すると、思いもかけない土地がそこにあることを知ることになります。 その土地へはどうしたら辿り着けるのか、その土地の人々や動植物はどんな風なのか、地理に歴史に言語に宗教、服装、食べ物、住居や都市の設計思想、慣習、習俗、法律、政治──。時には大使館の所在地まで書かれていることもあります。 時には読み手に喜びと微笑を誘い、時には恐怖と嫌悪をもたらす、無数の世界。人間の想像力がどれほど驚くべきものなのか、この事典ほどそれを如実に示すものはないでしょう。 もちろんこの事典は、ボルヘスの「バベルの図書館」のような完全なものではありません。現実に近すぎる地名と地球上にない地名は除かれていますし、邦訳の際に日本人にはあまりに馴染みが薄い地名は幾つか削られていますし、中近東以東にいたっては著者自身あきらめたらしい節があります(とはいえ、幾つかの地名は見えますけど)。 けれども、それでもなおこの事典は素晴らしい旅行ガイドであり、架空の土地の素晴らしい案内書です。あくまでも冷静に、客観的で簡潔で真面目な記述に、かえって可笑しくなってしまいます。なにより、パラパラと繰るだけで時間と退屈をわすれる事典なんて、世の中にそうそうあるものじゃないですよね。 |