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『雨月の森』



 頃は享保、中御門の帝の御代、季節は雨月、場所は箱根の関近く。
 そこに、ひとりのむすめがいた。
 名は、おせん。
 歳は十五か、十六か……。
 幼いころから両親はなく、おじに引き取られて暮らしていた。
 苦労に苦労を重ねて、やっとここまで大きくなったけれど、親戚とはいえ所詮は他人。
 人に言えない苦しみもある。
 そんなおせんが、ある雨の午後、荒神さんの森へ逃げ込んだ。



 雨のあがったばかりの森の道を、おせんはトボトボと歩いていた。
 足もとはぬかるみ、足首には濡れた落ち葉が貼りつき、木綿の着物のすそには泥がかかってしまっている。
 肩を落として歩くおせんの背中で、水木結びにした黒髪が哀しげにゆれていた。
(もう、あのウチには帰れない……)
 どこへ行くあてとてなく、ただただ森の道を歩く。
 雨はあがっても、空は暗い。
 ましてや深い森の中では、木々の天蓋がじゃまをして足もとすらおぼつかない。
(だけど、戻れない。おじさんが、あんなこと……)
 おせんはおじの表情を想い出して、ふたたび震えはじめた。
 そっと、自分の体を抱きしめる。
 それから、辺りを見回して、さらに森の奥へと進んでいった。

 朝はやく、おばは出かけていった。
 おばの親戚が亡くなった知らせが夕べ届いたからだ。
 おばの実家は、山ふたつ越えたところにある。
「四、五日は帰れねぇからよぅ」
 そう言い残して、おばは出かけていった。
 家には、おせんとおじの二人だけ。
 折からの雨であたりは寒く、囲炉裏で薪がパチパチとはぜていた。
 篠つく雨は、茅葺きの屋根から軒先の瓶におちて、ポターン、ポターンと音をたてる。
 二人は囲炉裏を囲み、草鞋を編んでいた。わずかでも現金収入を得るためだ。
 シーンと静けさがつつむなか、わらを擦りあわせる音が大きく聞こえる。
 そろそろ寄り合いの時間ではないか……と、おじにそう告げようと顔をあげた時、おじはおせんをじっと見つめていた。
 その、おじの視線。
 おせんをじっと見つめる、その視線。
 衣を通して、十五のむすめの肌を見つめているような、そんな視線だった。
 おせんは思わず、ブルッと震えた。
 その瞬間。
 おじはガバッと立ち上がり、おせんに飛びかかった。
 おせんの悲鳴と、おじの欲にまみれた叫び声が交錯して ── それから先のことは、おせんはよく憶えていなかった。
 ただ、気が付いたときには、裸足のままで、荒神さんの森の中を歩いていた。

 おせんは、ふと立ち止まり、辺りを見回した。
(荒神さんの森に、こんなところあっただろうか……?)
 ぼんやりと、もの思いに耽って歩いていたために、よほどに奥まで来てしまったらしい。
 足もとをみると、雨も止んでだいぶん経ったためか、もうぬかるんでも湿ってもいない。
(どうしよう、道に迷ってしまった……)
 いったんはそう思ったおせんだったが、
(どうせ、行く当てのあるじゃなし……)
と、諦めとも達観ともつかない気持ちになって、ふたたび歩きはじめた。
 この時代、それも農家の女が一人きりで生きられるほど世間は甘くない。江戸のような都会であれば働き口はいくらもあるが、こんな片田舎に十五の小娘の働き口などあろうはずもない。まして、両親もいない、保証人もいないでは、残る道は夜鷹くらいだ。
(この身を売ってまで生きたいとは思わない……)
 ひとり、そう決心して奥へ奥へとぬかるんだ道をすすむ。
 あるいは、この時のおせんは死を求めていたのかもしれない。
 おせんが歩をすすめるごとに、森は深く、暗さをましていった。

 いつの間にか、雨雲は消えたらしい。
 おせんがうえを見上げると、緑濃い木々の間から、青白い月明かりが漏れてくる。
 ケモノ道同然の、徐々に先細りする道をおせんはすすんでいった。
 歩くたび、足もとからは落ち葉のクシャクシャという乾いた音がする。
 闇がざわつき、ケモノの匂いがあたりを満たしている。
 どうなってもいいと、そう思っていたおせんも、本能が感じるおそれ、闇への恐怖からは逃れようもない。
(どこか、休めるところはないだろうか……)
 ふと、辺りを見回すと、おせんは木立の向こうにひろばのような場所を見つけた。
 月明かりがひときわ明るく降り注ぐそこは、まるで刈り込まれたような丈の短い草が敷布のように広がっていて、からだを休めるのにちょうどよさそうだった。
 闇への恐怖から解放されたくて、おせんはそこを今夜の寝床にすることにした。
 月明かりのなかへ歩み出たおせんは、青草の香りで胸をみたした。
 すると、今までの恐怖や不安が嘘のように消えてゆく。
 空を見上げると、そこには下弦の月が浮かんでいる。
(なぜ、ここはこんなに明るいの……)
 不思議な感覚にとらわれたおせんは、そのとき目の前にあるものに気が付いた。
 大樹──。
 そこには、いままで見たこともない、杉の巨木がそそりたっていた。
 十人の腕をまわしてもなお足りないと思わせるほどの太い幹には、真っ白な注連縄がはられている。
 根本を見ると、あわれなほど小さな幣串を挿して祀ってあった。
(これ、モリ木だ……) 
 おせんはその大樹の偉容に、畏怖の念さえ感じていた。
 こうした大樹は聖なる木、つまり招(お)ぎ代であり、天降る神を迎える依り代だ。
 大樹を見上げるおせんは、杉の枝の間からもれる月明かりが奇妙なほどに明るいことに気が付いた。
 やさしい月明かりがおせんを照らす。
(この下で、休ませてもらおう……)
 モリ木、つまり祟りなす荒ぶる神の依り代のそばで一夜を明かすなど、普段のおせんにはとっては考えることさえできないが、この時のおせんはそんなことも忘れていた。
 ただ、この大樹の傍なら安心だと、親の傍にいると安心する子供のように、単純にそう思ったのだ。
 節くれ立った木の根の間、そこに人ひとりが入れるほどの隙間を見出すと、おせんは躊躇うことなく身を横たえた。
 やわらかな月明かりが照らし出す大樹の根元で、まるで母親の腕に抱かれて眠る赤子のように、おせんはおだやかな表情で眠りにおちていった。

 おせんは夢を見た。
 やさしい目をした、不思議な人の夢。
 おせんから見ても、すこし古風な格好をしたひとだった。
 けれども、おせんは一目でわかった。
 この人はやさしい人だと。決しておせんを傷つけないだろうと。
 夢の中で、おせんはその人に何度も聞かれた。
──おせん、戻りたいか?
 おせんは、そのたびに答えた。
「いいえ、戻りたくない。ここにいたい……」
 すると、その人はやさしい瞳を曇らせて、
──なぜ……?
 と、静かに問う。
「もう行くところがないから。もうおじの所にも帰れないから。ここに、いさせて下さい」
 やさしい瞳をさらに曇らせて、その人は言う。
──では、もうしばらくここにいるといい。
 それで、おせんはホッとして、その人の膝に顔をのせる。
 記憶にはないけれど、母親はこんな風だったろうか。父親はこんな風だったろうか。
 そんなことを考えて目を閉じるおせんにやさしい眼差しを注いで、その人はそっと子守歌を口ずさんだ。
 高くもなく、低くもなく、ただおだやかに、やさしくおせんに降り注ぐ歌声。
 その声につつまれて、おせんは戻りたくないと思う。
 ずっとここにいたいと思う。
 すると、その人は問いかける。
──おせん、戻りたいか?
 おせんは、答える。
「いいえ、戻りたくない。ここにいたい……」
 何度も何度も、その人はおせんに問い、何度も何度もおせんは答える。
 ここにいたいと、そばにいさせてほしいと。
 そのたびにやさしい目をした人は瞳を曇らせて、けれど静かにうなずいて、おせんを膝にのせて子守歌を口ずさむ。
 慈愛に満ちた眼差しにつつまれて、おせんは幸せだった。
 どこにいた時よりも、今この時の方がしあわせ……。
──おせん、戻りたいか?
 何度繰り返し問われても、おせんの答えは決まっていた。
「戻りたくない。ここにいたい……」



 次の年の雨月。
 荒神さんの森で、モリ木を祀るために奥深くに入った村人たちはそこでおもいもかけないものを見出すことになった。
 杉の大樹の根元に、それはあった。
 まるでモリ木に抱かれるように横たわる、木綿の着物をまとったまっしろな髑髏──。

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