「黄昏と共に降り来たる」



 人の黄昏時に、そっと忍び込んで来る者があるのだ。
 それは人の願いより出て、人の願いを叶え、そして代償を求める。
 契約の羊皮紙、束縛の羽筆、鮮血のインク壺。
 ふるえる手でサインをすれば──




「──でね、結局、断ったんだってさ。勿体ないよね、すごく格好いい人だったんだって。松美が見たって言ってた。ね、ユウ、今度見に行こうよ、あたしたちも」
「わざわざ見に行くの? どんな男をふったのか確かめに?」
「だって、気にならない? ホントに格好いいかどうか、さ」
 そう言って、陽子は、キシシと人の悪い笑い方をした。
 並んで歩くユウは、苦笑とも呆れとも言えそうな表情で友人を見つめた。
「ねえ、ユウ。そう言えば、来月の文化祭、五組は『ファウスト』やるんだってさ。ほら、演劇部の秋本クン、彼が主役で。あたしは読んだことないけど、ファウストって結構長い話じゃなかったっけ?」
 ユウは静かに肯いた。
「結構ながいよ。三十分で終わるお芝居じゃないと思うけど……」
「ふうん。それじゃ、適当に切ってやるんじゃないの? 高校生のお芝居なんて、いいかげんでしょ」
 そう言ってふたたび笑った。
 辺りは少しずつ夕暮れの気配が漂いはじめていた。並んで歩くふたりの髪を秋風がやさしく梳いて、制服のスカートをかろやかに揺らした。
「そう言えば、ウチのクラスって何をするのかな?」
 顔にかかった髪をかきあげながら、陽子が呟いた。
「ねえ、ユウは何がいいと思う? あたしは、お芝居とかちょっと遠慮したいんだよね。恥ずかしいから。でも展示も準備が


──ユウ、これから数分の後に、キミはこのお嬢さんとお別れをすることになる。いつものように、さよならを言って、手をふる。お嬢さんも手をふって、交差点を渡り自宅への道をひとりで歩いて行く。そして、路地を抜けて通りに出た瞬間に、彼女の命数は尽きる。バイクにはねられて。頭蓋骨陥没骨折。損傷は脳にもおよぶ。すぐに病院に担ぎ込まれるものの、助かることはない。
 ユウ、これから数分の後に、キミがこのお嬢さんに言う「さよなら」は、真に永久の別れを告げる言葉となるだろう──


面倒だからやりたくないし。ねえ、ユウ、他にないかな、何か楽できる方法」
 そう言って、陽子は隣を歩く少女を見て、その表情に驚かされた。
 ユウは真っ青で、微かに唇が震えていたのだ。
「ちょ、ちょっと、ユウ。どうしたの、気分でも悪いの? 大丈夫?」
 陽子は慌ててユウの顔を覗き込んだ。けれどもユウの黒々とした双眸は何者も映してはいないようだった。
「ユウ! ねえ、ユウ!」
 ユウはようやく陽子の声に気がついた。
 突然、真っ青な表情のまま、陽子に勢い込んで尋ねた。
「陽子! 今日、これから時間あるよね? この後、何も用事ないよね?」
 陽子はユウの唐突な変化に唖然としつつも、とにかく首肯した。
「う、うん、別に何もないけど……」
 瞬間、ユウの表情が明るくなった。暗闇に一筋の光を見出したような、そんな表情を浮かべた。
「陽子、それじゃあ、このまま一緒に


──ユウ、もちろん、このお嬢さんの死を避けることは可能だ。キミが意図することも、もちろん可能だとも。とにかく、数分の後、あの場所に、このお嬢さんがいなければ良いだけの話なのだからね。さて、それでは彼女の命数が尽きなかった場合、それがどのような結果をもたらすか見てみよう。
 彼女は二十六歳で結婚する。夫はかつての同僚だ。仲睦まじいふたりは、一年後に男子を得る。さらに二年後、今度は女子を得る。こちらは双子だ。彼女は夫より先に彼岸へ旅立つようだ。享年六十八歳。歴史には何らの貢献もすることなく世を去る。さて、彼女の子供たちはいずれも結婚を経験する。双子の姉妹はそれぞれ男女四人の子をもうけることになる。七、八世代も過ぎた頃には、このお嬢さんの子孫は驚くべき数に達する。
 そして歴史は自らの手で修正をはじめる。
 ユウ、この光景が見えるかね? 人類のささやかな悪徳、つまり戦争だ。酸鼻な光景にみえるかね? だが、これこそ歴史の手になる修正だよ。死すべき定めの者が生き続けることは、後世に膨大な影響をもたらす。たとえ子孫を残そうと残すまいと。時間という縦糸、人生という横糸、それらが織りなす歴史というタペストリーは、ほんの些細な瑕瑾から怖ろしく複雑なほつれを生み出す。そのほつれを修正するのに、ちょっとした強引さが必要なことは、ユウ、キミにも理解できるだろう? いま、キミが命をひとつ救うことで、後世にはこうした光景が生み出される。死者の総数を申し上げようか?
 もちろん、お嬢さんを救うことは可能だ。むしろそうすべきではないかね? キミが死んで数十年も経ってから起こる戦争が何だ? 所詮、キミには直接の関わりなどないことではないか。
 無関係な、会ったことのない、会うことのない他人の命が何だというんだね? それよりは、今、目の前にいるキミの大事な人の命を救う方がよほど意味があるとは思わないかね? 愛他主義など意味がない。人間は利己的に生きるべきだよ。結局、だれだって自分が大切なんだ──


一緒に、一緒……」
「ちょっと、ユウ? どうしたの、ホントに大丈夫?」
 陽子の目には、ユウは更に蒼ざめた表情に見えた。唇の微かな震えは止まっていたが、そのかわりユウの瞳は更に虚ろなものになり、表情は完全に失われていた。
「……なんでも、ないの。なんでも、ない……」
 焦点の合わないまま、感情の消えた声でユウは呟くと、ひとり蹌踉と歩き出した。やがて、交差点にさしかかり、陽子は不安そうに言った。
「ねえ、ユウ。ホントに大丈夫? ひとりで帰れるの?」
「……だいじょうぶ、だよ……」
 ユウは振り返りもせず呟いて、悄然と歩いて行った。その後ろ姿は、まるで生ける屍か、幽鬼のようだった。
 信号が青に変わるのを待つ間、歩み去るユウの後ろ姿を、陽子はしばらくの間不安そうに見つめていたが、信号が青に変わった時、意を決して大声で叫んだ。
「ユウ! また明日、学校でね! 松美が見た彼、絶対一緒に見に行こうね!」
 陽子の声が届いた時、ユウは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
 辺りは夕陽に赤く染まっていた。街路樹も、人も、車も、立ち並ぶ家も、何もかもが茜色に染まっていた。
 ユウの視線に、交差点をわたっていた陽子は手をふった。あまりハッキリしなかったが、陽子は恥ずかしそうに微笑んでいたようだった。それから、点滅を始めた信号にせかされるように駆けだして、その姿は見えなくなった。
 夕陽を背にして、ユウは歩道に立ちつくしていた。
 数瞬の後、ユウのシルエットの後ろに、長身の、細身のシルエットが加わった。
 それが普通と異なっていたのは、その男には身長のさらに数倍しようかという大きな翼があったことだ。大きな翼は、夕陽を背にしていなければ真白に見えたことだろう。
 片翼をそっと動かして、凝然と立ちすくむユウを包んでいるシルエットは、それを見ることのできる者がいたとすれば、守護天使のように見えたことだろう。
「どう、して……」
 感情のないままに、ユウの唇はかすれた呻きを漏らした。

──契約は、願いとその代償について規定している。キミの願いをかなえるかわりに、私はキミに未来を告げる。それが私とキミの契約だからね。
 それにしても、今回で二度目の選択だったのに、キミはまた目の前の命を見捨てたね。

 大きな翼を背負う美しい男の言葉に、虚ろな瞳のまま、ユウはビクッと震えた。
 ユウの姿を見つめて、男はわざとらしくため息をついてみせた。

──どうして、と、キミはいったね。あるいはその問いはより根元的な領野に関するものだったのかね?
 歴史とは神々の織りなすタペストリーだと、先に私はそう言った。そしてわたしはその中でひとつの役割を担っているのだよ。ある種の悪魔、メフィストフェレスがそうであるように。いわば、これは神々の公認する許可制の商売のようなものでね。私の羽根が白いのはその証なのだよ。


 男は皮肉な冷笑を浮かべて、その大きな翼を二度ほど羽ばたかせた。
 しかしユウの虚ろな瞳には何も映ってはいなかったし、ユウの耳は何も聞いていなかった。
 ユウは一瞬、全身を震わせると、交差点に背を向けて家路を辿り始めた。
 西の空は禍々しいほどに赤々としていた。ユウのシルエットは真っ赤な夕日の中へ、まるで溶けるように消えていった。
 その光景を静かに見つめていた翼を背負う男は、そっと呟いた。

──今度もキミは混沌の未来を選ばなかった。しかし……

 男は皮肉に口許を歪めて、クスクスと笑った。

──いつか、未来の多くの命ではなく、目の前のひとつの命を選ぶ時がキミにも来るだろう。いままでの全ての契約者と同様に、ユウ、キミも逃れることはできないよ。世界中のだれよりも、幾億の命よりも大切なひとつの命を選ぶ時が必ず来る。人間は、それを愛とか言うのだが……。

 西日のなかに浮かび上がった大きなシルエットは、冷笑と共に翼を羽ばたかせて、茜色の黄昏の中に溶け消えた。





<了>

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