『エレギの写本をめぐるささやかな冒険』
(1st edition)


1、裏通りの煙草屋


 ほのかに甘い香りを立ちのぼらせる焼きたての蜂蜜パン。
 陶皿には、薄切りの塩漬け肉、シャキシャキした野菜、それに炒り卵。
 盃には真っ白なヘルガの乳が満たされてい、卓の白い布に朝日が映え、葦籠には瑞々しい野苺が盛られている。
 食卓にならべられた無数の料理に、若者は思わず声をあげる。
「ああ、これこそイルマタールの恵み、これこそ朝食!」
 ……そんな豊かな食卓の、それは妄想だった。
 水の都ラングネースに夏月(六月)が訪れ、窓から射し込む朝日はまぶしい。昼頃にはそうとう暑くなるだろうが、朝と夕には、北に横たわるニールギ山脈から涼風が降りてきて、実に爽やかな季節だ。
 けれども、そんな水都の裏町にある煙草屋の中で、若者は卓に並んだ空の陶皿を見つめ、頬杖をついていた。
「腹、へった……」ひとり呟く。
 このセルカという銀髪の若者、一見すると背の高いなかなかの美男子なのだが、空腹とそれに伴う睡眠不足のせいで、十近くも老けて見える。
 裏窓の外は水路になっていて、時折、平底舟(ファナス・トゥーリ)がすべるように通り過ぎてゆく。水面は朝日を反射してキラキラと光っている。しかしセルカにはそんな景色など見慣れたもので、いまさら何の感慨もなかった。
 セルカは卓におかれたパイプを取り上げると、背後の棚から小箱をひとつ取り出した。小箱の中には、ギッシリと刻み煙草がつまっている。
 どうやら、空腹を喫煙で紛らわすつもりらしい。
「飯はともかく、煙草だけは困らんからなぁ……」
 そうぼやいて、パイプに煙草をつめた。それから、何かを捜すようにキョロキョロとあたりを見回して、天井を見上げて溜息をもらした。
「なんで煙草屋に火打ち石がねぇんだ……」
 セルカはそう呟くと、眉根を寄せて、煙管を銜えたまま、ブツブツと何事かを呟いた。
 するとどうだろう、火もつけていないパイプからプッカリと紫煙が立ちのぼったではないか。火蜥蜴よろしく、セルカは鼻からフウッと紫煙を立ちのぼらせ、満足そうに目を閉じた。すると──
「見たぞ、見たぞ、先生(オファヘーヤ)!」
 突然、背後から塩辛声がして、セルカは危うくパイプを取り落としかけた。慌てて振り返って、溜息をつく。
「な、なんだ、スオバッコの婆さんか。驚かすなよ」
「なんだ、婆さんか、じゃないわい。まったく商売モンの煙草をプカプカ吸いおってからに。しかも『あんなやり方』で火をつけて。誰かに見られたらどうする気なんだい」
「大丈夫だって、俺はそんなヘマはしないから」
「ふん、なにが大丈夫なもんかね。現にワシに見られたじゃないか……」
 ブツブツ言って、スオバッコの婆さんはウロウロと辺りを点検しはじめた。腰の曲がった小柄な婆さんだが、実に達者なものだ。
「……婆さん、今朝は何の用だ?」
「ふん、四日分の売り上げをいただきに来たのさ」そういってカウンター下の缶を開けて、「ちょいと、まさかこれだけじゃないだろうね? たった二ルータしか売れなかったのかい?」
 老婆の手の中に光るのは、銅貨が二枚。
「そう、売れたのはそれだけ」
「これじゃあ、利息分にもなりゃしないよ」
 そう言って、婆さんはセルカの肩を杖で叩いた。
「ちょいと、先生、あんた真面目に稼ぐ気、あるんだろうね?」
「そりゃ、俺に売る気はあるが、なにしろこんな裏町じゃあな……」
 セルカは店の前の通りに目をやった。朝の日差しが白砂を敷いた通りをまぶしく照らしている。しかし、そこを通る人影はまばらで、閑散としたものだ。
「ふん、場所の問題じゃないわい、やる気の問題だわ。貸した三十クルト、利息がドンドン付いてるんだからね、はやく返さないと、あたしゃ知らないよ」
「わかってるって、何とかするから……」
 セルカはそう言ったものの、実際にはどうしようもない。
 スオバッコの婆さんはこのあたりでも有名な占い師だ。占い師という仕事は、要領さえ良ければ結構な小金持ちになれるらしく、スオバッコの婆さんも小金を貯めて、やがて金貸しを始めた。その客のひとりが、このセルカという若者だったというわけだ。
 実を言えばこの店もスオバッコの婆さんの所有で、働き口も見つけられないセルカのために婆さんが貸してくれたのである。
 さすがにきまり悪そうに頭をかくセルカをみつめて、婆さんは溜息をついた。
「あんたも、もうちょっと要領よく世渡りできりゃあねぇ、あんな力があるのにさぁ──」
「婆さん、力があるから苦労してるんだろうが」
「ま、それもそうか。あんたが魔法使いだなんて知れたら、都市(まち)から追われるくらいじゃあすまないものねぇ」
「そういうこと……」
 呟いて、セルカはプカァと煙を吐き出した。
 北方諸国、中でもこのシーアネス王国では、魔法やら呪術やらの使い手は大変に嫌われている。石持て追われるくらいなら良い方で、ヘタをすれば縛り首にされかねない。
 魔法使いという人種がこれほどに嫌われるのは、じつは神話に原因がある。古代神話に出てくる神々の多くが魔法の使い手であって、そのために人間が神々のものである魔法を使うことは不遜である、という考えが生まれた。僧侶や神官といった聖職者たちは、そうした考えを強く支持し、ために北方諸国の人々は幼い頃から「魔法使いは悪魔の使い、霧深いサリオラのしもべ」と教え込まれ、魔法使いは神々への反逆者、悪の権化のように思われている。そのために、多くの魔法使いは北方諸国を去ってしまい、今ではほとんど残っていない。
 その数少ない例外が、このセルカという若者だった。
「まあ、それはそれ、これはこれさ。とにかくしっかりお稼ぎよ!」
 スオバッコの婆さんは銅貨二枚を懐にしまいこみ、店を出ていこうとして、
「──あ、そうそう、言い忘れるところだったよ。あんたの恋人のカーレって人、あの人があんたに会いたいって言ってたよ。図書館に訪ねてきて欲しい、とさ」
「カーレ? あんな女、恋人でもなんでもない」セルカは苦い表情で言った。「あの女、いつも滅茶苦茶な仕事ばかり持ってくるんだぞ」
「あたしゃそんなことは知らないけど、それはともかく、金になりそうなら何でも引き受けるんだよ。三十クルトの借金を忘れるんじゃないよ!」
 強烈な言葉を残して、スオバッコの婆さんは帰っていった。
 ひとりになったセルカは、憮然とした表情で煙草を燻らせながら、カーレの用って何だろうと考え始めた。

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