『エレギの写本をめぐるささやかな冒険』
(1st edition)


2、図書館


 世界(アタラッド)の北方に、シーアネスという名の王国がある。シーアネスという名称自体、北方語(シーアード)で、「北の、北方の」という意味だ。
 西と南は海に面し、北はニールギ山脈が背骨のように走っていて、山脈の北は何もない凍てつく荒野が広がるばかり。唯一、東方だけは隣国ベラ・ス・スクーツ諸侯領と国境を接している。その国境線にほど近い湖沼地帯、二つの河が流れ込み潟をつくり、その潟の上につくられた都市がラングネース、水の都である。
 王都セドラルに次ぐ規模を誇るこの都市は、四方を水で囲まれ、Y字型の大運河と無数の水路を持ち、歩くより平底舟(ファナス・トゥーリ)で移動した方がはやいと言われるほどの運河の都だ。隣国は言うに及ばず、南方諸国や、はるか遠い熱砂の国からも商人が訪れ、様々な言語と産物が飛び交う商業都市である。
 そんなラングネースの最も北、ふたつの大運河に囲まれた行政地区には、司政官府や各種組合の本部、貴族の別宅などが建ち並んでいる。その一角に、背の低い、しかし広大な建物がある。これが王立図書館だ。
 王都の大図書館は事前に申請をしなければ立ち入ることさえ許されないが、ラングネースの図書館は万人に開かれていて、誰でも署名ひとつで入ることができる。これはラングネースが商都であるために閲覧を求める市民が多く、いちいち申請手続きをしていたのでは入館希望者を捌ききれないからだ。

 その日の午後、セルカは図書館受付に平然と別名を署名して、第七閲覧室へ向かった。カーレに会うときはいつも第七閲覧室と決まっている。
「カーレってヤツも、謎の多い女だよなぁ……」
 図書館の廊下を歩きながら、セルカは呟いた。
 セルカ自身、人のことは言えないほどに複雑な経歴の持ち主なのだが、それにしてもカーレという女は謎だった。
 年齢は不詳。職業は図書館員と称しているが、セルカはその言葉を全く信じていない。
 時々、第三者に伝言してセルカを呼び出し、仕事を依頼する。どうやってかは知らないが、カーレはセルカを調べ上げているらしく、借金で首が回らなくなっていることも、魔法の呪文(ラウシャ)の使い手であることも知っている。
 そして、何より困るのは時折とんでもない依頼をする──それも脅迫まがいで──ということだ。
 セルカが第七閲覧室に入った時、そこには三人ほどの人影があるだけだった。
 どうやら、カーレはまだ来ていないらしい。
 そこでセルカは、立ち並ぶ背の高い本棚の間をブラブラと歩きはじめた。
 『至高神ウツツヨ』、『イルマタール神の属性』、『イルマリネン天地鍛造説』、『創世記』、『霧深き大地サリオラ』、『トゥオネラ(冥府)由来』……
 第七閲覧室は神話や伝説についての本が収められていて、商人が訪れることはまずない。古代語に精通した神官や趣味人がたまに訪れるくらいで、図書館ではもっとも静かな部屋のひとつだ。
 ブラブラと本の背表紙を眺めていると、セルカの視線がある題名に釘付けになった。

 『エレギの写本』

「そんな、莫迦な……」セルカは愕然と呟いた。
 『エレギの写本』は、不滅の詩人、不滅の魔術師、不滅の賢者と称される最強の存在、ワイナミノス神の呪歌を記録したといわれるエレギ書の写本だ。
 この世界(アタラッド)には二種類の魔法がある。ひとつはラウシャといわれる魔法で、決まった形式の呪文を呪文師が唱えることで発動する、いわば「普通の魔法」である。そしてもうひとつ──より古く、より強力なラウラという魔法がある。ラウラを定式化した魔法がラウシャなのだ。そして、今では失われた魔法、ラウラの起源は、『エレギの書』に遡るという。
「莫迦な……最後の一冊は、俺が確かに……」
 セルカは呟いて、その本に手を伸ばしかけた。
 するとセルカの横合いからスッと白い手が伸びて、『エレギの写本』を取り上げた。
「お久しぶりね、少年(ソイニ)」
 いつの間に現れたのか、そこには図書館員の緋色の長衣をまとった美しい女性、カーレが立っていた。
 漆黒の長髪、陶器めいた白い肌。しかし視線は写本に注がれたまま、セルカと目を合わせようとしない。
「ねえ、セルカ……。そんなに『エレギの写本』に興味があるの?」
 呟くように言って、カーレは写本をパラパラとめくり始めた。
「う、いや、その……」
「それに、何か気になることを言いかけたわね? 最後の一冊は、とかなんとか?」
「さ、さあ? そんなこと言ったっけ?」
 しかし、カーレはセルカに視線を向けることなく、相変わらず写本の頁を繰っている。
 その様子を、セルカは内心ハラハラしながら見つめていた。なにしろエレギの写本である。本物であればこの場にどんな事態を引き起こすか、想像もつかない。
 唐突に、カーレは写本をパタンと閉じて、セルカに向き直った。
「そう心配そうな顔をしなくても大丈夫よ」そう言って写本をセルカに投げ渡す。「見てご覧なさいな」
 慌てて頁を繰ったセルカは驚いた。その写本は白紙、一語たりとも記されていなかったからだ。
「な、なんだ、こりゃ?」
「その白紙の本は私がここへ置いたの」
「はあ?」
「エレギの写本なんてものを知っている人間は少ないし、そういう表題の本をここに置いておけば、あなたの注意を惹けるのは確実でしょう?」
「そのためにわざわざこんなシロモノを……」
「そうよ。でもね、他にも理由はあるわ」カーレは美しいかんばせに謎めいた微笑を浮かべた。「このエレギの写本が本当に見つかった、といったら?」
「信じないね」間髪入れずにセルカは言い切った。
「まあ、そうでしょうね、私だってそう思うわ。私はそもそもエレギの写本が実在したことさえ疑わしいと思っているわけだし」
 いや、実在はしたさ……セルカは胸の中で呟いた。俺は読んだことがあるんだからな。だけど、最後の一冊は故郷を離れるとき焼き捨てた。だから、今、世界(アタラッド)にはエレギの写本は一冊もないはずだ。
 そんなセルカの表情をどう見たものか、カーレはじっとセルカを見つめたが、何も訊かなかった。
「それで? そもそも俺に用ってなんだ?」
「あら、今言ったじゃないの」
「エレギの写本が見つかった、ってやつか? そんなもの、あるわけねぇだろ」
「そうね、でも、その本が本物かどうか──私だって偽物とは思うけど──確かめたいの。協力してくれないかしら?」
「確かめるって、どうやって?」
「もちろん、持ち主の家に忍び込んでちょっと拝見させてもらうのよ」
「忍び込むだぁ?」
 セルカは唖然としたが、カーレは表情一つ変えない。
「だって扉を叩いて、すみませんけどエレギの写本を見せてくださいって、そう言って見せて貰えるとおもうの?」
 確かに、それが本物か否かはともかく、写本の持ち主はそれを所有していることさえ否定するだろう。魔術書の類を収集するのは、よほど変わった趣味の好事家か、魔法使いくらいのものだ。そしてどちらが持っているにせよ、他人には見せようとしないはずだ。魔法使いは同業者に呪文が知られるような危険な真似は絶対にしない。好事家は、なまじ価値を知っているために、これまた他人に知られないようにする。
「待て待て、忍び込んで拝見するのはともかく、それが本物のエレギの写本かどうか、どうやって判断する気だ?」と、セルカ。
「あら……」カーレは婉然と微笑んで見せた。「そのためにあなたに来て貰うんじゃないの。腕の良い魔法使いは魔術書が本物かどうか見極める、そのための呪文を知っているんですってねぇ、先生(オファヘーヤ)?」
「う……」
「それじゃあ、詳しい話をしましょう。ついて来て、少年(ソイニ)」
 セルカは黙ってついていくしかなかった。

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