『エレギの写本をめぐるささやかな冒険』
(1st edition)


3、大運河


 図書館の裏手、大運河に面した船着き場に、一艘の平底舟がもやってあった。
 カーレはその舟にセルカと共に乗り込み、渋い面構えの年寄りの船頭に、「それじゃ、例の場所までやってちょうだい」といった。
 無言でうなずいた船頭は、櫓を巧みに操って舟を運河の中心へと導いてゆく。
 夏月の間、大運河を往来する船は多い。長い冬は航海に適さないため、短い夏は船舶の最も多い季節だからだ。小型の商船は大運河に面した商家の船着き場に直接接岸するし、大型船舶の積み荷は、港に着いた後、小型船に載せかえて水上を輸送される。
 帆掛け船、櫂船、平底舟など、大小さまざまな船が、夏の午後の日差しを浴びて大運河をゆったりと進む。その間を、セルカとカーレを載せた平底舟が縫うようにして進んでゆく。まるで大魚の群に迷い込んだ小魚のように。
「今回の話の出所がどこかは教えられないけど」とカーレが話し始めた。「とにかく、こういう話なのよ……」
 一月前、つまりヘルギ月の十八日、ある人物がカーレに連絡を寄越した。
 曰く、南方諸国に逃れた魔術師たちのひとりの遺品らしい書籍が、サザンプールの古書市場で取り引きされたらしい。それは相場とは桁外れの値段で買い取られ、このラングネースへと持ち込まれた。あまりに高額だったために取引そのものに注目があつまって、市場はその噂で持ちきりになったという。その書籍の中表紙には、北方語(シーアード)で、「ヴィフィネン」という署名が記されていたという。しかもどうやら、その内容はエレギの写本であるらしい……
「……そこで、私は該当する時期にサザンプールから入港した船を虱潰しに調べて、写本を運んだと思われる船をどうにか特定したの。トゥーリークの息吹号という船らしいわ」
「一体、どうやって調べたんだ?」
「それは秘密」カーレは微笑んだ。「とにかく、その船の船主の周辺を調査したら、船主が古書の買い手だったらしいことがわかった、というわけ」
「ふん、胡散臭い話だな」
「そうなのよねぇ」同感、というようにカーレは溜息をついた。「どうにもハッキリした情報が足りないの。ただ、その古書にヴィフィネンの署名があった、という点がどうにも気になって仕方がないのよ……」
 しばらくの間、船頭が櫓を漕ぐギィギィという音と、水音だけがあたりを包んだ。
「大魔術師、大賢者ヴィフィネン、か……。すると、南方で死んだ魔術師ってのも、当人だったわけかねぇ?」と、セルカ。
「さあ、わからないわね。ここ五、六十年、あの魔術師に関する話はまるで聞かれなかったらしいから、ひょっとしたら本人だったのかもしれないわね」
「ふうん……」セルカは疑わしげに、「たぶん、アンタは知ってると思うけど、ヴィフィネンって魔術師はとんでもない山師で、しかもたちの悪いイタズラ好きって話も聞いたけどね」
「そういう噂もあったわね……」今度はカーレが不審そうな目をセルカに向けた。「だけど、セルカ、一応ヴィフィネンって署名があった以上、私としては見過ごせないのよ」
 その言葉に、セルカは片眉をクイッと上げてみせた。
「ほほぅ、『私としては見過ごせない』……。ひとつ訊くがな、アンタ、ホントはどういう人間だ?」
「……。少年、何度も言ったでしょう? 私は王立図書館の職員。だから古書に興味がある。それだけのことよ」
 カーレは悠然と微笑んでみせると、視線を運河の東河岸に向けた。
「ほら、少年、あそこ、あの白漆喰の商館。大きな商船が着いてるでしょう? タツノオトシゴと三叉の槍の船旗の」
 カーレのホッソリした指の先には、大運河に面した商館と、大型の商船が浮かんでいた。三本マストで四角帆の大型船だ。もちろん帆は畳み込まれているが、帆柱の先には船旗が見える。喫水からの高さもあり、その船が外洋を航行する商船であることは一目瞭然だった。
「でかいな……」
「そう、あの商館の主が、疑惑の人物なの。商館の船着き場に横付けされているあの船が、トゥーリークの息吹号」
「それで? 船主の名前は?」
「商館の主は、トゥーロ・ドラン。サザンプールで香辛料の取引をして財をなし、二年ほど前に拠点をこのラングネースに移したの」
「どういう人間だ?」
「そうね、あまり表に出ない人物で、取引は腹心の部下に任せているみたい。背が高く、金髪緑眼、という話もあるけれど、これはあまり信用できないわね。とにかく表に出ないから、人物像はほとんどわからないのよ」
 商館を見つめていたセルカは頭を掻いた。
「それで、あの警戒厳重な商館に侵入しろ、と?」ヤレヤレ、というように溜息をつく。
 遠目でも、船着き場はもちろん、至る所に屈強な男たちが立っているのがわかる。
「そうなのよ、だからあなたにこの仕事を頼みたいの」
 何事かを考えるように水面を見つめていたセルカは、ややあって言った。
「ことわる」
「セルカ!」
「ことわる、と言ったんだ。俺は盗みなんかゴメンだ」
「盗みじゃなくて、ちょっとお邪魔するだけよ」
「ほう……」セルカはあからさまに不信の表情を浮かべた。「お邪魔するだけね。それじゃ訊くがな、もしも例の写本が本物だったら、どうするよ?」
 カーレは、初めてやや怯んだ表情を見せた。
「本物だったら……そうね、ちょっと拝借するかもしれない……」
「みろ、何がちょっとお邪魔する、だよ」
「ね、セルカ、お願い」
「ことわる! この舟を陸(おか)へ戻してくれ」
「報酬、はずむわよ。十クルト出してもいい」
「ことわるといったろ!」
 そこでカーレは盛大な溜息をついて、うつむいた。
「ああ、セルカ……。悲しいわ、これだけお願いしてもダメだなんて」
「ふん、俺には泣き落としなんか通用しないからな」
「いいえ、悲しいといったのは、そういうことじゃないの。セルカ、あなたともう二度と会えないかと思うと、悲しくて悲しくて、泣けてくるの」
「な……」
「うん。あなたがそんなにかたくなだと、私は街のみなさんに言わなきゃならなくなるわ。頑固一徹で、女を泣かせる借金まみれの邪悪な魔術師が、皆さんの近くに棲んでいます。その名は、セルカ。一見すると優男、だけどその実体は──悪魔の使い、神々への反逆者!」
「カーレ、てめえ……!」
 カーレはその美しい顔に、今にも笑い出しそうな微笑をたたえている。
「さあ、どうする? 私のお願い、きいてくれる? それとも、魔術師であることをバラされるほうがいい?」
「どこまで汚ねぇんだ、てめえは!」
「何とでも。さあ、答えをきかせてくれないかしら?」
 すました表情のカーレを睨みつけ、しかしややあってセルカはガックリと肩を落とした。
「……負けたよ。わかった、やるよ。やりゃいいんだろ……」
「ありがとう! さすが、先生(オファヘーヤ)!」
 そう言って、カーレはセルカの銀髪を掻き上げ、額に口づけをした。
 けれどもセルカはむくれたまま、もう何も言わなかった。

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