『エレギの写本をめぐるささやかな冒険』
(1st edition)


4、ドラン商館


 ラングネースの夜は、七の刻過ぎまで喧噪が絶えない。
 一杯酒屋にはひきもきらず男たちが訪れ、通りには露店がつらなり、店先には香辛料の強い串焼き鳥やら、ヘルガ肉の漬け焼きやらが並んでいる。辺りを照らす灯火のなかで交わされる言葉は北方語だけではない。人々は片手に麦酒の盃を持ち、異国的な香りと騒音に満ちた通りをそぞろ歩く。
 そんな喧噪も、八の刻を過ぎる頃には静まってゆき、真夜中には、この水の都にも浅い眠りが訪れる。その短い眠りも、二の刻も半ばを過ぎれば、港や市場、運河沿いの船着き場には、早くも船乗りや仲買人が集まりはじめ、ラングネースは目覚め始める。
 これが夏月の短い夜の光景だ。

 真夜中、一の刻も半ばを過ぎたころ(午前一時過ぎ)、大運河に面した商館近くの物陰に、黒い外套に身を包んだ二人の姿があった。
 街は寝静まっていて、時折、ランタンを持った人影が石畳を過ぎて行く。その足音さえ大きく聞こえるほど、街は沈黙の中にあった。
「だから、なんであんたまでついてくるんだよ」と、声を殺してセルカが囁いた。
「依頼者は私。だから私も行く。当たり前でしょ」と、こちらも囁くように、カーレが答えた。
 二人ともそろいの黒衣に身を包み、頭からすっぽりフードを被っている。夜空は晴れ渡っていたが、二つの月、アリトもアリーハも天頂になく、物陰のふたりはまるで常つ闇の中に潜むかのようだった。
「言っとくがな、俺はあんたまで護る自信はねぇからな」と、セルカ。
「自分の身くらい自分で護るわよ。それより、少年、わかってるんでしょうね?」
 カーレが白漆喰の商館を指さした。
「あのドラン商館で、怪しい場所は三ヶ所。まず三階の主寝室の続き部屋。次に二階の奥の書斎。最後に地下の倉庫──」
「わかってるって。何度言えば気が済むんだよ」呟いて、ふとセルカは訊ねた。「そう言や、あんた、どうやって商館の図面を手に入れたんだ?」
「あの館は二年前まで、別の商人が使ってたの。だから、図面はすぐ手に入ったわ」
「それじゃ、内部に情報源があるわけじゃないのか?」
「ドラン商館は異常に警戒心が強くて、とてもじゃないけど人を潜り込ませることなんかできなかったのよ」
「それじゃ、怪しい三ヶ所ってのは……」セルカは苦く言った。「当てずっぽうか?」
「失礼ね」カーレは平然と、「せめて、推理と言ってほしいわ」
「それじゃあ、怪しい三ヶ所にない可能性も……」
「もちろん、その可能性もあるわね」
 セルカはガックリと肩を落とした。つまり、あの大きな商館中を家捜ししなきゃならない、という可能性があるわけだ。
「行くぞ」セルカはそっけなく呟いたものの、その声には微かな怒りがこもっていた。もちろん、カーレは素知らぬ様子のままだったが。
 闇の中で、セルカは両の腕を交差させて、目を閉じたまま呟いた。

──色は始原の大気より 色は始原の水面より
   薄れゆけ 我が意の命じるままに 
   日の無き空に燐光のみちて すべてが薄暮に薄れるように
   月無き夜空に星光の散りて すべてが暁に色褪せるように
   薄れゆけ 光り無き夜の影の如くに──

 セルカがそっと呪文(ラウシャ)を唱えると、セルカとカーレの姿は闇の中で更に薄らいでゆき、やがて影とひとつに溶けあった。
 そしてふたつの影は、まるで半ば透明な幽霊のように、ドラン商館へとヒタヒタと近づいていった。

 ドラン商館の大扉がギーッと音をたてて開きはじめたとき、商館の内側で歩哨の役目を担っていたふたりの男はサッと緊張し、手にした短槍を扉へと向けた。
「誰だ!」
 低く鋭い誰何(すいか)の声が飛んだが、それに答える声はない。
 辛うじて人ひとり通れるほどに開いたまま、大扉はその動きを止めた。
 沈黙の数瞬が流れて、槍を構えた男のひとりが、もう一人に声をかけた。
「おい……。だれもいないぞ」
「ああ。だけど、この扉には鍵が掛かってるんだ。勝手に開くわけがない」
「……とにかく、閉めてしまえよ。それから、ダンナに報告だ」
「そうだな……」
 いぶかりながら大扉を閉めた男は、ドサッという奇妙な音に思わず振り返った。するとそこには、白目を剥いて同僚が倒れている。
「お、おい!」
 慌てて駆け寄ろうとした男は、突然、腹部に重い衝撃を受けた。
「ぐっ!」
 男は呻いてその場にうずくまった。しかし、男の不幸はそれで終わらなかった。さらに後頭部に鋭い一撃をうけて、ついに意識を失ってしまったのである。
「……おい、ちょっとやりすぎじゃないか?」
 扉のそばで、セルカの囁くような声がする。しかしその姿はみえない。
「大丈夫よ。気を失ってるだけ。それより、何か縛るもの持ってない?」
「あるわけないだろ、そんなもの」
「もう。準備が悪いわね……。それじゃ、そこの詰め所に押し込みましょ。手伝って」
 そういうわけで、無数の燭台と松明(たいまつ)に明々と照らされた玄関広間の床の上を、意識を失ったふたりの男はズルズルと引きずられて行き、大扉わきの詰め所に押し込まれてしまった。
「……さて、どこから行く?」
 二階へ続く階段を見上げて、セルカが訊いた。
「もちろん、地下の倉庫からよ。こういう時は、下から順に調べて行くのが盗みの鉄則なんですって」
「ほう、詳しいな。そんなこと、誰に教わった?」
「……。さて、行きましょうか。地下倉庫は、たしかこっちよ」
 セルカの質問を無視して、半透明なカーレの影は、二階へ続く大階段の裏手へと歩き出した。
 樫板張りの床は、壁に掛けられた灯りを反射するほどに磨き上げられている。その床を、ふたつの影がスルスルと滑るように進んでいった。
「そう、ここね……」
 大階段の裏に地下へ続く階段がポッカリと口を開けていた。階段の先は闇に隠れていて何も見えない。
「本当に、こんなところにあるのか? ちょっと安易だろ、これじゃあ……」
「ブツブツいわないで。とにかく、ひとつずつ潰していくしかないでしょ」
 そして二つの影は、地下倉庫の闇のなかへ下りていった。

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