『店の名はノスタルジア』(2nd Edition)



「おまちしておりました──」
 天妃町のビル地下にあるその店に入ったとき、マスターは彼女にそう挨拶した。
 いらっしゃいませ、ではなく、おまちしておりました、と。
 薄暗い店内はせまく、客の姿はなかった。
「どうぞ、こちらのお席へ」
 マスターはカウンターの端、店の最も奥まった席に彼女を誘った。
 彼女はマスターの誘うままにその席に腰掛けると、正面の棚に飾られた写真に視線を注いだ。
 マスターは何も言わず、そんな彼女をじっと見つめていた。彼女は五十を越えたくらいに見える。ほっそりとして品のあるその姿に、マスターは見惚れてしまった。
 ふと気が付いて、彼女は写真から視線をはずした。
「すると、この席なのね──」
「はい」
 短い会話だが、二人にはそれで充分だった。
 ピアノのゆるやかな旋律が、沈黙の谷間を流れてゆく。

 マスターは、彼女の前にグラスをおいた。
 グラスの中には、琥珀色のウイスキーと、水晶のように透明な氷。
「これは──」
「あの方は、いつもダブルをご注文でした。ゆっくりと、時間をかけてお楽しみになっておいででした」
「そう。週に一度、金曜の夜は──」
「はい」
 またしても、沈黙がふたりを包んだ。
 初老のマスターと、髪に白いものが混じりはじめた女性。
 カウンターをはさんで向き合うふたりの脳裏に浮かぶのは、同じ人物の顔。
 互いに、異なる姿を知っているふたり。

「なにか言ってました? あのひと──」
「いえ。いつも静かに煙草を燻らせながら、その写真を見ておいででした」
 そう言って、マスターは彼女の正面の額に目をやった。
 額の中には、引き延ばされて粒子が粗くなった、白黒の写真。そこに写っているのは、無数の群衆の姿。地の果てまで人で埋め尽くされた光景。
「そう。それじゃ、あのひとは結局忘れられなかったのね……」
 マスターは何も言わなかった。
 ただ、黙って写真を見つめただけだった。
 グラスのなかで、氷がカランと音を立てる。

「この店は、いつもこんなに……?」
「いえ、本日は定休日ですので」
 マスターの言葉に、彼女はちょっと驚いたようだった。
「あら、ごめんなさい。それじゃ、わたしの為に──」
「いえ、奥さま。お電話をいただいて、どうしても開けたくなったのですよ。どうか、お気になさらず……」
 その言葉に、彼女は軽く頭を下げたようだった。
 それから、その表情に悪戯っぽい微笑がうかんだ。
「その奥さまって、やめてくださいな。あのひとが逝って、もう半月も経ったのに」
「しかし──」
「今のわたしは、ひとの妻じゃありませんもの。おかしいわ、奥さまなんて」
 そういって、彼女はクスクス笑った。
 マスターは困ったような表情をうかべた。
「しかし、それでは何とお呼びすれば……?」
「恵子でいいですよ。名字でなく、名前で呼んでくださいな」
「はい、奥さま。あ、いえ、恵子さま」
 ふたりの間に、あたたかな空気がながれた。
 沈黙はふたりの視線を白黒の写真へと誘う。
 彼女がポツリと呟いた。
「何も言わなかったんでしょうね、あのひとのことだから」
「何も仰いませんでしたが、金曜の夜はいつもその席を空けておきました。あの方は、その席が空いていないとお帰りになりますので」
「そう。それじゃ、いつも埋まっていてくれたらよかったのに……」
 彼女はそういって、クスクス笑った。

「わたしたち、学生のころに出会ったの。もう三十年以上も前の話だけど……」
 彼女は写真を見つめたまま、呟くように語りはじめた。

 

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