『店の名はノスタルジア』(2nd Edition)



「それから、あのひとは反対側に行ったの」
「反対側……?」
 マスターが訊ねた。
「そう、反対側。あの騒々しい日々が終わった後、わたしたち講義に出た記憶なんてないけれど、とにかく大学を卒業して、あのひとは大手の商社に就職したの。この間まで、あれだけ非難してた体制側に──」
 そういって、彼女はクスクス笑った。
「就職して、わたしたちすぐに結婚したわ。それからは、仕事一筋。あのひと、脇目もふらずに、仕事仕事。娘が生まれたときも出張してて、生まれて一月も経ってからはじめて顔を見たくらい。だから結局、仕事のせいで死んだも同然──」
 そう言って、彼女は軽くため息をついた。
 彼女の正面の写真はモノクロームだったが、彼女の目には色鮮やかなものに見えた。
「結婚してから、一度も学生のころの話をしたことはないのよ。不思議と、あの頃のことになると、あのひと、不機嫌になって黙り込んで。普段からあまり口数の多いひとじゃなかったけど──」
 彼女は薄くなったウイスキーを口に含んだ。
「わたし、あのひとはあの頃のことを想い出したくないんだろうと思ってたの。今日、ここに来るまで……」
 マスターは口許に微笑を浮かべた。
「そう言えば、あの方に一度、こう言われたことがあります。オレが通ってくる間は、この写真は替えないでくれ、と」
 初老のマスターと彼女の間に、穏やかな笑いを含んだ空気が流れた。それはあの時代の記憶を共有する者の、同志めいた共感だったのかもしれない。
 結局、どれほど心から追い出そうとしても消えないモノはあって、数十年この店に通い続けた無口なオトコの心にも、還るべき場所、還るべき時代があった。
 彼女は、それが自分でなかったことは寂しかったけれど、この店のこの席で写真をながめていると、死んだ夫の気持ちもわかる気がした。
 彼女の夫もまた、昔の人間なのだ。
 きっと、郷愁に駆られたなどと死んでも妻には言えないと、そう思っていたのだろう。実際、一言も漏らすことこと無く逝ってしまったのだけれど。

「それじゃあ、そろそろ──」
 長い沈黙の後、彼女は腰をあげた。
「奥さま、いえ、恵子さま、この写真──」
 マスターは群衆の写った写真を壁からはずし、彼女に差し出した。
「この写真を、どうぞお持ちください」
 彼女は少し驚いて、その写真を受け取りかけたが、すぐにその手を下ろして微笑んだ。
「いいえ。それは飾っておいてくださいな。あのひとは、この店にある写真を見ているのがスキだった。我が家の仏壇の横にそれを飾っても、あのひとが喜ぶとは思えませんもの」

 彼女はふたたび微笑んで、言った。
「きっとまた、参りますわ。金曜の夜にでも──」
 マスターは深々と一礼して、目を細めた。
「金曜の夜に、お席を空けてお待ちしております」

 そして彼女は扉を開けて階段をのぼり、紅灯の海へと消えていった。
 ひとりになったマスターは、写真のはいった額をもとの位置に戻し、それからグラスを拭き始めた。
 ときどき写真を振り返って、満足そうに微笑を浮かべながら……。

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