『終わりなき冬の物語』


あとがき、みたいなもの


 このお話は、当初は八歳になるわたしの姪のために考えはじめたものでした。けれども、話を考えるうちに、それはしだいしだいに大きくなってしまい、とうとうわたしの書いたお話の中でも、もっともメッセージ性の強い、大人向きのお話になってしまいました。このお話からどんなメッセージを感じられるか、あるいはどんな感想をお持ちになるかはそれこそ読んだ方の自由で、わたしはそのことに容喙するつもりは毛頭ありません。

 ただ、ひとつだけ誤解されてしまうとこまることがあるので、そのことだけはここに書いておきたいとおもいます。それは死についてです。

 きちんと読んでくださればおわかりいただけるように書いたつもりですが、このお話は決して死を讃美するものでも、美化するものでもなく、また特定の宗教思想に基づくものでもありません。死は、どこまでも死です。またその死をさけようと、あるいは先に延ばそうとして発達してきたのが近現代の医学であり、そのことを否定するつもりは毛頭ありません。(もちろん、医学や生命科学の抱える倫理的な問題を否定するつもりもまたありませんけれど)

 ただ、お話には書き手の意思や思想が反映されるという考えを諒とするなら、このお話には多分にわたしの死生観が現れているようにも思います。

 わたしにとって、死とはたぶん生の延長線上にあるもので、生の一部だろうと思っています。神、あるいはそれに類するもの、もしくは自然が与えた「贈り物」が死だと思っているのです。そして、死後の生などありえないとも思っています。これは単に塩野が無神論者だからですが、死を恩恵と考えるのは、幾つかの文学作品の影響と思います。

 短かろうと長かろうと、人は生を全うして死を得る。そして死は生の一部なのだから、死を生と同様に受け入れて全うし、安らぎを得る。これが、わたしの考えなのだと思います。

 もちろん、読み手の方にこの考えを強制する気はありませんし、またそんな力もありません。ただ、死を讃美しているという誤解をうけることは不本意なので、あえてあとがきという形で、ここに書いておきます。



 あ、それと、お話に出てきたオオウミガラスについて、ひとこと触れておきますね。

 このお話のなかのオオウミガラスは正確に描写されているものではないのですが、オオウミガラスはかつて北半球に実在した生き物です。そもそもペンギンという言葉の由来は、このオオウミガラスにヨーロッパの人々がつけた名前を、南半球の似た生き物に付けたからだと言われています。(ラテン語の「ふとっちょ」、ピングウィスから)

 オオウミガラスは直立歩行をし、背中は黒、お腹は真っ白で、頑丈なくちばしと小さな翼(フリッパー)をもっていました。まさしく、元祖ペンギンという姿です。

 この生き物は北の海に棲息していましたが、二百五十年のあいだ人間に乱獲されつづけた為に種の危機に直面し、あわてた各地の博物館が剥製の入手に血道をあげた結果、絶滅に至りました。

 1844年6月3日、アイスランドのエルディ島で漁師によって二羽が殺され、その二羽のタマゴはもうひとりの漁師によって踏みつぶされて、そしてこの瞬間に、地球上からオオウミガラスは消え去りました。
 薬臭い、数体の剥製を除いて。


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