『桜香郷遺聞』


 一、

 佐吉が登りついたとき、老人はまだそこにいた。
 そこは村の茅山のずっと奥、山また山のつらなる峨々たる稜線のはじまりにある。ブナやケヤキやナラの繁茂する山林をくぐり抜けた先、唐突に光があふれて、切り立った断崖の頂の、棚状になったそこに至る。視界の半分を青空が覆い、雲をひく突兀(とつこつ)とした峰々が地平を隠している。視線を崖下へと転じれば、緑濃い山懐に抱かれるようにたたずむ郷(さと)の家々が見えている。
 その岩棚の端に、一本の桜の巨木が蒼穹を指して立ち上がり、郷からのぼってくるやわらかな春風にうす桃色の花びらをふりまいていた。満開の花々は雲にも似て、その桜の太やかな幹の下に老人は座り込んで、春霞にゆれる景色を見つめていた。
「仏の御手に抱かれたようじゃろう? ふむ──蓮の花にも似ておるか。高野の御山も斯くや、と思うね」
 佐吉が来たことにいつ気がついたものか、振り返りもせず老人は笑った。
 墨染の衣はくたびれ果てて、老人の傍らの編み笠は大きく破れ目が見える。桜の幹に立てかけられた錫杖が、老人が僧であることを辛うじて主張していた。
「……お上人さん、よかった、まだここに、おっただな」
 荒い息の下で、佐吉は安堵の声を漏らした。崖の端近く、桜の根元の老人に歩み寄ると、その横にどっかと腰を下ろす。
 しばらくの間、沈黙が流れた。老人は佐吉を見ようともせず、ぼんやりと春の緑に視線を奪われたままである。余程に慌ててここまで登ってきたらしい佐吉も、ようやく落ち着きを取り戻したらしく、左手にぶら下げてきたものを老人の傍らにトンと置いた。
 すると、どうしたものか老人が鼻をひくつかせ、はじめて顔を佐吉へと向けた。けれども、ごま塩髭(ひげ)に覆われた顔は佐吉を見ているようで、その実、視線は傍らに置かれた竹の酒筒に注がれていた。
「ふむ──なんぞ、あったか?」
 老人は言外に含むところのある言い方をした。
 酒なぞ持ってくるとは、厄介ごとか何かあって、ご機嫌をとりに持って来たのじゃろう? 言外にそう言っていることは明らかだった。
「お上人さん、そりゃオラの気持ちだよ。それ飲んだからて、それでどうこう言うつもりは、ねえだ」
 一瞬、皮肉な微笑を浮かべた老人は、間髪入れず酒筒を取り上げて、勢いよく飲みはじめた。飲む、というより流し込む、というべきか。口の端から雫がこぼれ落ち、と見る間に飲み干してしまったらしく、老人は竹筒を崖下へ放り投げると口を拭って、ほうっと長い溜息をもらした。春風は絶え間なく桜の花びらを舞い散らせ、あたりには微かに甘い匂いが漂った。
 しばらくの沈黙の後、老人はつまらなそうに重い口を開いた。
「これ、おい、佐吉よ、いつまで黙りこくっておるつもりじゃ? はよう言わんか」
「だども、お上人さんよぅ──」
「ええもう、ウダウダ言わんと、はよう言え。これで儂も暇じゃあないわえ」
 老人の言葉に、佐吉も諦めたように俯いていたが、やがて訥々と話し始めた。
「……お上人さん、そのな……新田の、ほれ長助じいさんの隠居屋のとなりに、弥太というのがおるだ。その弥太の娘のおみつ……この正月で九つになった子だども……そのな……その、憑かれただよ」
「──憑かれた?」
 老人の呟きに、佐吉は覚悟を決めて続けた。
「んだ。正月の六日、いきなり熱だしてよぅ、弥太のヤツもわざわざ堀久保の薬師を連れてきたども、薬師ももてあましただ。そんで、こりゃおかしいとガキどもに訊いたら、三日に、八幡さんの境内の……その、お稲荷さんの祠を壊したと……」
「稲荷を壊したじゃと?」
 老人は呆れたように呟いた。けれどもこの老僧が呟くと、呆れもどこか微笑をさそう風情がある。なんとまあ大した度胸だ、とでも言い出しかねない雰囲気があるのだ。
「それで、その……弥太のやつ今度は、堀久保の法印(ほういん)さんを呼んで、憑き物を落として貰おうとしただ。したらば、弥太の本家のじいさまが──」
 すると突然、老人の眉間に皺が寄り、佐吉の言葉を遮った。
「おい、まて佐吉。その弥太とやら、まさか──藤四郎のところの分家ではなかろうな?」
 老人の言葉に、うつむき加減だった佐吉はビクッとして、黙り込んだ。
 高い空を鳶が流れていき、あいかわらず桜の花びらがチラチラと舞い散っている。
 しばらくの間、佐吉と老人を澱んだような沈黙が包んだ。
 佐吉の左手は微かに震えていたが、とうとう口を開いた
「……そ、それでよう、本家のじいさまは弥太の奴に言うた、と。その……」
「──もうよいわえ。それ以上言わぬでも、わかることじゃ。どうせ、村を出ていくようにとでも言うたのじゃろう? 病気の娘を連れて、二束三文も持たせずに。法印を連れてくることも許さんと、憑き物の家は出てゆけとでも言うたのじゃろうが、ええ?」
 佐吉は黙りこくったまま、うつむいている。老人は、数瞬前とは別人のように、苦い口調で続けた。
「本家の面目の為なら、分家のひとつなぞ簡単につぶす。あの家は何も変わっておらんのか。キツネが家に憑くとか、たわけたことを言って田畑を取り上げては肥え太る。面目の為なら、幼い娘のいる家をつぶしても平然としておるのじゃ。それで、村のためになったと──糞食らえじゃ」
 晴れ渡った春の空も、満開の桜も、雲をひく山々の緑も、老人の目には映らないようだった。ただ、正面を見据えたまま、呟くように静かに続けた。
「春が来るたび、儂がここに来ておることを知っておるのは、佐吉、お前さんだけじゃ。お前さんはそのわけも知っておるはずじゃ。それで尚、この儂に言うのかえ。その弥太とやらの娘を助けろ、と」
 佐吉は、ハッと顔を起こして、
「お上人さん、オラ──」
「佐吉、じきにこの桜も終わりじゃ。儂は明日、発つ」
「お上人さん、たのんます、どうか──」
 しかし、老人は口許を真一文字にひき結んだまま、佐吉に向かって数文を投げた。
「酒手じゃ」
 うなだれた佐吉はしばらく黙り込んで、やがて立ち上がるとすごすごとその場を離れた。林に入る前に振り返った佐吉は、しかし老人の姿を見ることはなかった。
 ただ、桜の巨木だけが、春風にハラハラと花びらを散らせていた。

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