二、
朝早く、佐吉が長助じいさんの隠居屋の裏手の弥太の家に駆けつけたとき、すでにそこでは押し問答がはじまっていた。
弥太の家の土間に上がり込んだ本家の若い衆が数人、今日すぐにでも出ていけ、狐憑きの家は村から出ろと叫き立てていたのだ。土間には弥太が這いつくばって、
「せめて、おみつの熱がひいてから……頼む、この通りだ」
と、額を擦りつけていた。
けれども本家の若い衆はそんなことに同情をひかれる様子はなかった。
「弥太さん、あんただってわかってるはずだて。キツネは家に憑く。血に憑く。そんな家があっちゃあガキどもも安心して外にはやれんし、女どもは怯えとる。さあ、はよう出ていくだ」
しかし、弥太は土下座を崩そうとせず、土間に額をこすりつけ、男たちに手を合わせている。若い衆はいくら言っても動こうとしない弥太にしびれを切らせて、とうとう頭と言わず腹と言わず、蹴りつけ始めた。
佐吉は土間の入り口でこの様子を見た。
「おい、よさねえか!」
佐吉は慌てて割って入り、若い衆のひとりを突き飛ばした。
「佐吉、てめえ、邪魔だてする気か!」
気が立ってしまっている男たちは、佐吉を囲んで一斉に殴りかかった。
一対五、それもさして広くもない土間の中である。勝負は目に見えていたし、佐吉にしても一人で止められるとは思っていなかった。しかし、考えるより先に身体が動いていた。
鳩尾に拳がささり、苦い胃液が口にひろがる。顎に、頬に、容赦なく拳が飛んで、佐吉の口の中に鉄臭い血が溢れた。
村の連中は遠巻きに見ているだけ、意気地のない連中だ。朦朧とする意識の中で、佐吉は皮肉な笑いを浮かべた。
すると、入り口に人影がさして、若い衆の動きがピタリと止まった。
「……?」
佐吉は左目の瞼が腫れてしまってよく見えない。耳も、中で破鐘が鳴っているようにしか聞こえない。それでも、佐吉は何とか入り口に立つ男を見ようとした。
それは、鶴のようにやせ細った老人
── 本家の当主、藤四郎だった。
今度こそ、土間に土下座する弥太は見るも無惨だった。変わらず伏し拝む姿勢のまま、しかし両手はふるふると小刻みに震えていた。
藤四郎は若い衆に低い声で叱責して、土間の中へ入ってきた。佐吉など目に入らないものの如く、真っ直ぐ弥太の傍らに進むと、片膝をついて弥太の肩に手を置いた。そして静かに語りかけた。
「……弥太、儂らはなにも鬼ではねぇ。それに儂らの都合だけを言っとるのでもねぇ。だども、弥太、お前さんも知っての通り、おみつちゃんはキツネに憑かれた。キツネは家に憑く、血に憑く。
例えば、誰かがこの家に来て、何かをやったとする……すると、キツネはそいつにも憑いてしまうかもしれねぇ。逆に、弥太、お前が村の寄り合いに出かけたとする。するとキツネはお前についていって、寄り合いに出とるだれかに憑くかもしれねぇ。
弥太、頼む、みなまで言わせないでくれや。このまま村を出てくれねえか。頼む」
土間はしんと静まりかえった。若い衆も佐吉も何も言わなかった。ただ沈黙がながれ、そして土間に伏していた弥太が、そのままの姿勢で啜り泣きはじめた。
「おお、おお、辛いのは儂も同じだ、弥太
── だども、なあ、勘弁してくれ」
そう言って、藤四郎老人は骨と皮だけのような手で、弥太の背中をそっとさすった。
佐吉は、一瞬、藤四郎老人の言葉を信じかけた。それほどに、藤四郎の言葉は強く、真情に満ちているように思えたのだ。村のため、そうなのかと思いかけた。
そして、語りかける老人の目を見た。
それは佐吉をして背筋を慄然とさせる目だった。冷たく、感情の一欠片も見えない、死人にも似た目。
気がつけば、佐吉は呟いていた。
「……ウソだ。オラ知っとる、藤四郎のじいさまはウソつきじゃ」
「──ウソ、じゃと?」
弥太の背中をさする骨張った手が、ぴたりと止まった。すうっと顔を上げた藤四郎老人は、冷たい目で佐吉を見つめた。
「う、嘘つきじゃ、オラ知っとる。あんた、昔もおなじことして、村から何人も追い出しただ。オラ聞いただ、狐憑きの家系を言い出したのは──」
しかし、藤四郎は佐吉にみなまで言わせるほど甘い老人ではなかった。
「おい、佐吉を黙らせろ!」
藤四郎の目線に答えて、若い衆は再び佐吉を取り囲み、殴りかかった。
佐吉は殴られながらも叫び続けた。弥太の家の周りに集まっているはずの村の衆に向かって叫び続けた。
「あ、あんた昔もおなじことしただ! オラは知ってるだ! あんたが先代の死んだ後、すぐにキツネの家を言い出して──」
「うるせぇ! 黙りやがれ!」
「この野郎、まだ言うか!」
再び、佐吉の意識は薄れかけ、しかし佐吉は叫び続けた。自身でもなにを言っているのか、ちゃんとした言葉になっているのか、わからなかった。
その時、戸口にふたたび影がさして、若い衆の動きが止まった。
「その通りじゃ──」
襤褸布めいた墨染の衣、破れた編み笠、右手に錫杖をもった老人がそこにいた。
「……お上人さん……」
若い衆の間で、佐吉がへたり込んだ。安心したものか、それとも脚にきたのか。
老僧は編み笠の下から、藤四郎老人を見ていた。
「ふむ、変わっとらんわ、その声、その目──あの頃のままじゃ。相変わらず、弱い衆を食い物にしとるのかえ?」
破れた編み笠の下からのぞくごま塩髭が、呟きを発するたびに動くのが見えた。
「このジジイ、何をブツブツ言ってやがる!」
若い衆の一人が激昂して老人に殴りかかった。
老僧はすっと右足を引いて、錫杖をシャンと鳴らした。
佐吉の右目に見えたのは、それだけだった。
一瞬の静寂のあと、男は老僧の前に崩れ落ちた。男の腹部に錫杖の石突きが深々とめりこんで、意識を失ったのだ。
再び、錫杖がシャンと鳴って、老僧が編み笠を取った。
若い衆は気をのまれてしまい、誰ひとり言葉も発しなければ、動きもしなかった。
老僧は悠然と土間へ入ると、まず佐吉の傍らに片膝をつき、身体をあらためた。
「──ふむ、どこも折れとらんようじゃ。目の腫れは四、五日もすればひくじゃろうよ」
老僧の変わらない調子に、佐吉はかすかに笑った。
「オラ、上手くやっただからなぁ」
「どうもそのようじゃな。さて──」
佐吉に笑いかけると、老僧は立ち上がり、土間に座り込んで呆然としている弥太に向かって訊ねた。
「これ、弥太とやら、娘は奥かえ?」
魔物か何かを見るような目で老僧を見つめていた弥太は、わけもわからないままにコクンと肯いた。
シャンと錫杖を鳴らすと、老僧は奥へ進もうとした。
「──まて、法印なぞこの村には必要ない。帰れ!」
ひび割れた声で、そう言ったのは藤四郎老人だった。さすがに若い衆とは違って、気を呑まれはしなかった。それでも、藤四郎老人の右手が小刻みに震えているのを佐吉は見逃さなかった。
藤四郎の言葉に、老僧は振り返った。
その目──老僧の目が、藤四郎を圧倒した。怒り、憎しみ、哀しみ、侮蔑。老いた者の目にこれほどの力があろうとは。藤四郎老人は蒼白になり、黙り込んだ。
老僧はそのまま奥へと進み、土間にいる者はだれひとり何も言わず、動こうとしなかった。ただ、佐吉だけが片足を引きずりながら、老僧の後をフラフラと追っていった。
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