『桜香郷遺聞』


 三、

 おみつという娘を、佐吉はよく知っていた。快活で明るく、物怖じすることなく男の子たちに混じって野山を駆け回る、そんな娘だった。
 だが、今、ここに横たわる娘はだれだろう? もちろん、おみつであることは間違いない。間違いないがそれにしても、この面差しの変わり様は信じられないものだった。病む前と較べて、痩せても太ってもいない。おみつであることは間違いない。なのに、全てが違うのだ。
 いわば、肌が透明になって一瞬ごとに消えていこうとするような、そんな危うい儚さがあった。そっとでも手を触れてしまえば、娘を粉々にしてしまいそうな儚さだ。
 老僧はおみつの枕元にそっと片膝をついて、錫杖をかたわらにおいた。
「お、お上人さんよぅ……」
 佐吉が囁くように言いかけるのを、老僧は片手をあげてさえぎった。
 節くれ立った大きな手をおみつの額にそっとあてて、老僧はしばらくのあいだ動かなかった。
「……熱はない」
 老僧は呟くと、娘の傍らで印を組んで、お経か呪文のような言葉を囁き始めた。それは奇妙に単調で、繰り返しが多いようだったが、佐吉には老僧のこもるような言葉がよく聞き取れなかった。
 佐吉が立ったままの姿勢に耐えきれなくなり柱にもたれ掛かったその時、ようやく読経か何かが終わったようだった。
 老僧は立ち上がると、錫杖を鳴らして、
「おい」
 と言った。
 一瞬、佐吉は自分のことかと思い立ち上がり、それが娘にかけられた言葉であることがわかった。おみつの腕がピクリと動くと、目をカッと見開いたからだ。
「ホホ……、法力の強い坊主もいたものよ……。わしゃ呆れた……。ホホ……」
 佐吉の背筋に走った戦慄は、藤四郎老人の目をみた時の比ではなかった。
 おみつの口から出た声は、おみつのものではなかった。遠くから響くような声は子供のそれではなく、内容も子供のそれとはまるで違った。なによりその目はとても正気とは思えない輝きを宿していた。
「おい、何故に生者を害する? そなたの棲むべきところはここではない」
 老僧の言葉に、おみつは焦点の合わない様子で天井を見つめている。
「ホホ……、棲むべきところな……、汚されて……、壊された……。ホホ……」
「郷の者は祠を新たにするじゃろう。そこへ戻るわけにはゆかぬのか?」
「ホホ……、知らぬか……、知らぬか……、一度抜ければ……、憑き終わるまでは……、戻れぬものを……。ホホ……」
「誰ぞを憑き殺さねば戻れぬと言うか?」
「ホホ……、汚した者、傷つけた者……、憑かねばならぬ、滅ぼさねばならぬ……。ホホ……」
 老僧は黙り込んだ。じっとおみつを見つめている。
 すると、おみつの目がギョロと動いて、老僧を見つめた。
「ホホ……、そなたの法力……、強いなぁ……、だが無理じゃ……、そなたには……、無理じゃ……。ホホ……、ホホ……」
 老僧は、その言葉に皮肉めいた微笑を浮かべて、
「それではひとつ、やってみようかえ」
 と言った。
 おみつは表情ひとつ変えず、すっと目を閉じた。
「ホホ……、無理じゃ……、無理じゃ……、諦めよ……、諦めて、娘を手放せ……。ホホ……、ホホ……」
 老僧は右手の錫杖をシャンと鳴らすと、すうっと胸いっぱいに息を溜めた。
 それから、錫杖を目の前に立て、両手で支えて、耳を聾せんばかりの大音声で叫んだ。

「──出て行けっ!!」

 老僧のすさまじい大喝に、天上の梁が軋み、大黒柱が揺れたように思われた。佐吉はあまりの声に腰が抜けてしまい、その場にガクンとへたり込んだ。
 その瞬間、グラッと床が揺れ、老僧が両手で支えていた錫杖の鉄環が全て炸け飛んだ。その内の幾つかは壁にめりこみ、床に穴を開けた。
 と見る間に、横たわる娘は突如として四肢を突っ張らせ、咆吼するが如くに大きく口を開いて、声なき声を轟かせた。それは獣の絶叫のようであり、鼓膜を打ち震わせ、腐らせるような声だった。
 そんな中でも老僧は微動だにせず、しかし眉間には皺が寄り、額には脂汗が滲んだ。
 絶叫と揺れは数瞬の間続いたが、次第に遠ざかって小さくなって行き、やがてあたりに静寂がもどりはじめた。
「む……」
 老僧が呻くと、両手に握られていた錫杖はボロボロと崩れて、足元に埃の小山となってわだかまった。
 とうとう完全な静寂が戻って、ほうっと溜息をもらした老僧は、佐吉に、
「やれやれ、終わったわえ──」
 と、呟くように言った。
 それから、心配そうに娘を見つめたまま、可笑しそうに付け加えた。
「──この娘が起きる前に、お前さん、床に漏らした小便をどうにかせい」


 老僧と佐吉が土間に戻ると、そこには尚もへたり込んだままの弥太がいるだけだった。他の者は逃げ出してしまったらしい。
 老僧は弥太に、おみつが呪縛から解き放たれたことを告げ、半刻もすれば目を覚ますと告げた。それをきいた弥太は、礼を言うことさえ忘れて奥へ駆け込んでいった。
 苦笑を浮かべた二人は、そのまま村はずれの峠へと歩き出した。
「──お上人さん、どうしても行きなさるだかね?」
「ふむ──もう桜も終わりじゃからなぁ。どのみち、今日発つつもりじゃった」
 老僧はそう言って、山また山の連なる稜線の端、桜の巨木がある崖へ視線をやった。もちろん、村から桜は見えなかったが、それでも老僧の目には桜の散る姿が見えるのかも知れない。老僧は、そんな何とも言えない表情をしていた。
 横を歩きながら、そんな老僧を見つめていた佐吉は、ふと訊ねた。
「あの、お上人さん、訊いてもいいだか?」
「ふむ、なにかえ?」
「あのキツネ、退治しただね? つまり、もう誰にも憑かないだね?」
「ふむ──退治なぁ。いや、退治はしとらんわえ。儂はあの娘から追い出しただけじゃて」
 老僧の答えに、佐吉は目を白黒させた。
「そ、そいじゃ、また誰かに憑くだか?」
「ふむ、いやな、もうとっくに誰かに憑いとるじゃろうよ。佐吉、お前さんも聞いたじゃろうが、誰かを憑き殺せばあのキツネは祠に戻ることができるのじゃ。つまり、儂はあのキツネを娘の身体から追い出して、ついでにその方向を逸らせただけなのじゃ」
「方向を、逸らせた……?」
「ふむ、つまりじゃ、あのままでは誰に憑くかわからなんだゆえな、儂は方向を変えて藤四郎めに憑くように仕向けたのじゃ」
 一瞬、唖然とした表情を浮かべた佐吉は、やがてクスクス笑い始めた。
「そ、それじゃあ、ウソから出た真だかね。あの藤四郎のじいさまにキツネが──」
 佐吉はひとしきり人の悪い忍び笑いを漏らした後、横を歩く老僧を見つめて呟いた。
「それじゃあ、お上人さんの仕返しもとうとう終わっただね」
 佐吉の言葉に、老僧は少し辛そうな表情を浮かべた。
「ふむ──仕返しか、そうかもしれんわえ。仏門に入った身で浅ましいことじゃ……。儂が毎年、桜のころにあの場所へ来て郷をみておったのは、郷愁のためと思うておった。あの桜には幼い頃の想い出があるゆえな。じゃが──」
 老僧は深い溜息をもらした。
「じゃが、儂は心の底では許しておらなんだ……。狐憑きの家系と称して父と儂とを村から追い出し、田畑を取り上げたあの藤四郎めを、許してはおらなんだのじゃ……」
「お上人さん──」
「この歳になって、まだ己の心も知らず惑うておるとは──情けないことじゃ」
 しばらく沈黙したまま歩いていた二人だが、峠に近づいた時、老僧が佐吉に訊ねた。
「そう言えば、あのおみつという娘、母御はどうしたのじゃ? 恐れて実家へ戻っておったのかえ?」
「おみつを産んだ時、亡くなっただよ。産後の肥立ちが悪かったとか」
「そうか……あの娘もなぁ」
 やがて、とうとう村はずれの峠にさしかかって、そこで老僧は佐吉を押しとどめた。
「もうよい、もうよい。これ以上の見送りなぞ、いらぬことじゃ。それにじゃ、佐吉、お前さんの傷は浅手とはいえ、無理はせぬ方が良いわえ」
「お上人さん、せめて峠の地蔵さんのとこまではオラ……」
「いらぬ、いらぬことじゃ。それより、佐吉、お前さんに頼みたいことがあるのじゃ」
「頼み……?」
「ふむ──これじゃ」
 そう言って、老僧は懐から麻布の小袋を取り出し、佐吉に渡した。
「これはな、儂の師である普海阿闍梨(あじゃり)より形見分けにいただいた桜桃──つまり桜ん坊の種なのじゃ。これをあのおみつという娘に渡してやって欲しいのじゃ。庭に植えるも良し、郷の道すがらに植えるのもよいじゃろう。
 ただし、佐吉、このうちの二つはお前さんがとって、八幡の境内にある稲荷の祠のかたわらと、藤四郎の家の跡に植えて欲しいのじゃ」
「藤四郎の家の跡……?」
「そうじゃ。藤四郎はキツネが憑こうと憑くまいと長くない。あの痩せかたは尋常ではないわえ。肺病でも病んでいるのではなかろうかな。ともあれ、あの家は藤四郎で終わりじゃ。二年と保つまいて。そうしたら、佐吉よ、この桜桃の種から育てた苗を、家の跡に植えて欲しいのじゃ」
「お上人さん……」
「雲水の儂がいつまでも持っていたところで、仕方がないわえ。面倒かもしれんが、頼む」
「……わかっただ。必ず言われた通りにするだよ。だども──お上人さん、今度はどこへ行くだか?」
「ふむ──行雲踪跡定まらず、じゃよ」
 そう言って、老僧は笑った。
 佐吉はその表情に奇妙な印象を受けた。憑かれたおみつとは違うものの、老僧もまたどこか薄らいだような、透明な静謐をたたえている気がしたのだ。佐吉は言いしれぬ不安に駆られて訊いた。
「お上人さん──また戻ってくるだね? 行ったきりなんてことないだね?」
 老僧は不安そうな佐吉に、不思議な微笑みを浮かべてみせた。
「──桜の咲く頃に、また来るわえ」
 それだけ言うと、老僧は峠を登っていった。
 佐吉は、春霞のたなびく山々の間に墨染の衣が溶けて消えるまで、じっと立ち尽くして見送っていた。



 この後、郷は美しい桜で知られるようになり、桜香郷と称されるようになった。
 春には庭先と言わず街道と言わず、美しく咲き誇る桜花に包まれ、夏には愛らしい実を鈴なりにした桜の下で、子供たちが笑いさざめいた。

 けれど、春、桜の季節が巡り来る度に、老僧が郷を訪れたかどうか、その記録はない。


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