『桜香郷遺聞』 あとがき


 あとがき嫌いと言いながら、また書きます。と言うのも、今回はどうしても書かなくてはいけないことがあるのです。
 このお話は、言うまでもないことですが、完全なフィクションです。当然、「狐憑き」と一般に称されるものも、今回描いた「憑き物」も、現実的にはありえないものです。
 かつて、現代的な科学に基づく医療がなかったころ、心に起因する病気は様々な心霊現象として理解されていました。例えば、乖離性人格障害や重度の躁鬱、神経症など、当時の医学や科学では理解できないものを、おしなべて霊的障害、たたり、呪い、天罰などという形で理解していました。「憑き物」もそれらのひとつということが出来るでしょう。
 憑き物は全国的に見られるもので、もっとも一般的なものは狐憑きです。キツネは稲荷信仰との兼ね合いもあって霊的な存在と考えられることが多く、よく「憑く」と考えられていたようです。狐憑きが必ずしも凶事をもたらすとは限らないと考える地域もあると聞きますが、ほとんどの地域では狐憑きは忌まれる出来事でした。ちなみに、キツネの他、蛇や猫なども憑くと考えられたようです。
 これらは過去、つまり人間が自然に畏れを抱いていたころに考えられた自然へのアプローチのひとつと考えられますが、問題は、これらの「憑き物」が現代でも一部の人々に信じられ、人々に苦しみを与えている、という事実があることです。
 わたしはこのお話で、「キツネは家に憑く、血に憑く」と言わせました。それに対して、老僧に「ばかげた話、藤四郎老人のウソ」と否定させています。
 ところが、現代の一部地域では「狐憑きの家系」なるものが実際に信じられているのです。
 わたしが聞いた範囲でも、例えばある田舎町では数軒の家が狐憑きの家系と今も考えられていたり、それを苦にして家を引き払い別の地域へ引っ越したりした例があるそうです。
 そうした地域では、「狐憑きの家系とされた家から何か贈られたら、すぐに贈り返さなければ憑かれる」とか、「口をきくのを避けるべきだ」とか、様々なことが言われ、実際に(あろうことか今でも)行われています。
 また、結婚などに際して、婚前調査として周辺の家に聞き込みを行い、狐憑きの家系とされた場合は婚約を破棄されたり、就職を拒否されたりする事例は枚挙に暇がないほどです。
 地方自治体などは(婚前調査・就職前調査も含め)こうした憑き物による差別を無くすために努力してはいるようですが、まだまだ多くの地域で、多くの人々が憑き物を信じ、あるいは「意図せざる」差別行為を行っています。
 こうした「憑き物等による差別」は、部落差別が江戸時代に時の為政者によってシステマティックに「作られた差別」であることに対して、人々の心に根ざす差別であるだけに、根絶することは大変なようです。
 こうした「憑き物」といった出自・世系などによって個人を差別することは、基本的人権を侵す行為であり、個人を尊重し「いかなる人間も出自や門地、外見や性別等によって差別されない」という憲法の基本思想をも踏みにじる行為であり、いかなる理由があったとしても人として絶対に許されないことです。

★用語解説★
法印(ほういん):民間の宗教者のこと。山伏や、呪術を行うもの、あるいは僧にはならなかったものの修行を積んだ経験のある者を指して、このように呼んだそうです。時には医者のようなことも行ったとか。

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