涙をいっぱいに浮かべた女の顔が、最初だった。
 女はおれの顔を覗き込んでいたが、おれが意識を取り戻したのを見ると、叫び声を上げた。
「気が、気が付いた!待ってて、今センセイを呼んでくるから!」
 そう言って、駆けだしていった。
 おれはベッドに横たわっていて、「まってて」などと言われなくともどこへも行けない状態だった。
 廊下から、女の甲高い声と、それを落ち着かせるかのような低い声が聞こえてきた。
 個室の扉が開き、女と三十絡みの医者らしい男が入ってきた。

「つまり、キミは今まで眠ったことが無かった、と?」
 医者の言葉に、おれはしずかにうなずいた。
 女は初めて聞く話に、驚いたような表情を浮かべている。
「……なるほどなぁ、それが原因かもしれない」
 医者は難しい顔をして、ひとりごちた。
「キミのような病気、まあ病気と言って差し支えないと思うが、その、前例が無いのでなんとも言えない。ただ、今回のことと関係があると見て間違い無いだろう」
 医者は傍らの女を振り返って、訊ねた。
「キミが見たとき、彼は眠っているように見えたといったね?」
「はい。床に突っ伏して、寝相が悪いなぁくらいに……。でも、表情が蒼ざめてて、ほとんど息をしてないように見えたので……」
 医者は二三度うなずいて、おれに向き直った。
「キミはどうだ?眠ったような気がするかね?つまり、夢を見たような気がするとか?」
 おれは、思わず笑い出しそうになったが、それを堪えて首を振った。
「それじゃあ、どこまで憶えている?つまり、倒れた感覚はなかったのかね?」
 限界だった。
 どこまで憶えているか、だと?
 おれは笑い出してしまった。
 笑いの発作は収まることを知らず、涙を浮かべ、腹がいたくなるほど笑い続けた。
 どこまで憶えているか、だと?
 すべておぼえているに決まっている!
 黒い葬列に加わり、「銀河の小瓶」を買い、老婆の膝の上でそれを飲ませて貰ったあの瞬間まで、すべて鮮明に憶えているとも!
 そう、おれはとうとう成功したんだ!
 満足感、喜びに満たされて、医者の言葉があまりに的はずれなのが可笑しくて、おれはいつまでも笑い続けた。

 気がついたとき、おれはベッドに横になっていた。
 女は帰ったのだろう。
 医者は、諦めて仕事に戻ったようだった。
 おれは笑いすぎて、奇妙なけだるさを感じていた。
 そっと目を閉じてみる。
 すると、今までに感じたことのない感覚、落下するような感覚に包まれた。
 まるで、闇のなかを浮遊するような、フワフワした感覚だった。
 そしておれは喜びとともに、夢の中へと落ちていった。
 それは、やわらかく、あたたかなミルク色の──



END  NEXT