『エレギの写本をめぐるささやかな冒険』
(1st edition)


6、封印の書


「いちおう、自己紹介しようか?」男は悠然と笑って、「ワシはドラン。この商館の主だよ。お二人さんが見とれていた木箱も、ワシが持ち込んだものさ。どうだい? ちょっとしたものだろう?」
 ドランは実に嫌らしい含み笑いをしてみせた。楽しくて楽しくてしかたがない、といった風情だ。
 けれども、紹介を受けた二人はまるで聞いていなかった。
「少年(ソイニ)の莫迦! どうして扉を閉めておかなかったのよ?」
「あんたが急にいなくなるから、扉なんかに気が回らなかったんだよ!」
「人のせいにしないでよ、少年」
「うるせえ! 少年少年いうな」
「……お二人さん、そろそろ話を進めてかまわないかね?」
 髭の男が口を挟んだとき、カーレが身構えた姿勢のままで怒鳴った。
「うるさいわね! ドランですって? 笑わせないでよ、『赤い爪のポトラン』!」
「おや?」男は心底意外そうな表情をひげ面に浮かべた。「君は……いや、知らないな。こんな美人なら一度会えば忘れる筈がない……」
「おい、あんたこのオッサンを知ってるのか?」と、セルカ。
「ええ、よく知ってるわ。この男は、諸侯領の宰相ブリヤートの腹心、ポトラン。暗殺や謀略の専門家で、ついたあだ名が”赤い爪”。そうでしょう、ポトラン!」
 カーレはポトランと呼ばれた男を睨みつけた。
「おや、そこまでご存じなら、自己紹介するまでもなかったかな」ポトランは髭をしごき、「しかし、ワシとしてはお二人さんの名前は知りたいねぇ」
 そう言って、おどけて見せた。
「ええ、教えてあげるわ……あなたが死んだ後で!」
 叫ぶと同時にカーレの右手に短剣が閃いた。けれどその瞬間に、カーレは体勢を崩してその場に倒れ込んだ。
「カーレ!」
 セルカは慌てて振り向こうとして、その瞬間に、体勢を崩して倒れ込んだ。手首と足首が、目に見えない縄らしいもので縛られていたからだ。
「いたた……」カーレもまた、見えない縄で後ろ手に縛られているらしく、石の床の上で呻いた。「ちょ、ちょっと、セルカ、これってどういうこと?」
 セルカもまた見えない縄をふりほどこうと躍起になっていた。
「そいつは夢の蛇というシロモノだ」とポトラン。「目に見えない捕縛縄、といったところかな。まさか、何の備えもなしにお二人さんの前に現れるとでも思ったのかね、カーレくん、セルカくん?」
「セルカ……」情けなさそうな表情で、カーレはセルカを見つめた。
「あのオッサンの言うとおりだ。こいつは夢の蛇。身体だけでなく、精神も縛り上げてしまう呪文だ。こいつにかかると、もうヤツの意のままに束縛されてしまう。三流の魔術師がよく使う手だよ」そう言って、セルカは皮肉な目つきでポトランを見つめた。
「そうとも。ワシは魔法使いとしては三流さ。だが効果は絶大と言うべきだろうね。抜けられるかな、魔法使いの少年?」
 ポトランはおかしそうな顔でセルカを見つめる。
「俺にも無理だな」苦り切った表情で、セルカは呟いた。「ラッカに気を取られた一瞬が命取りだ」
「そうとも! さすがに魔法使い、実によくわかっておられる」
「それじゃ、魔法も使えないの?」とカーレ。
「無駄だよ」答えたのはポトランだった。「少年が言っていただろう? 今や精神さえ、ワシの蛇が捉えているんだ。いくら呪文を唱えたところで無駄なこと。気の抜けた麦酒も同然だ」
 ポトランは愉悦をこめて笑うと、二人を見下ろした。
「さて、お二人さんがこの商館へ忍び込んだ理由は、これかな?」
 ポトランは懐から革張りの本を取りだした。ポトランの手の中では小さく見えるが、実際には枕に使えそうなほど大きい。
「エレギの写本……!」カーレが低く叫んだ。
「最悪だ……」セルカが呟いた。
 しかし、ポトランは本気で驚いたように二人を見つめた。
「何だと? こいつはそんな写本などではないぞ」
「へ……?」とカーレ。
「まさか、そんなことも知らずにここまで忍び込んできたのか? なんとまあ間抜けな二人組もあったもんだ!」
 ポトランは可笑しくてたまらない様子で、その場で笑い出した。巨大な太鼓腹が、笑い声にあわせてブルブルと震えている。
「おい……」とセルカ。「あんた、あれがエレギの写本だと、そう言ったよな?」
「えーっと……」とカーレ。「正確には、『エレギの写本かもしれない』と言ったのよ。そう、本物とは一言も言ってない! そもそも、それを確かめに来たわけだし」
 セルカはカーレを白い目で見つめて告げた。
「……俺はもう、あんたの依頼は二度と受けないからな」
「セルカ、そんなこと言わないで。ね! 今回はたまたまこういう事になったけど、次は絶対確実な話を持っていくから」
「あんたと組むのは、もうゴメンだ!」
 ポトランは目に涙さえ浮かべて笑っていたが、ようやく笑いを抑えこんだ。
「よしよし、仲間割れは見苦しいぞ、お二人さん。それじゃあ、お二人さんがトゥオネラ(冥府)のヤブメアーク(死の女神)の御前に伺候する前に、本当のことを教えてやろうじゃないか……」
 未だに笑いの衝動が起きるらしく、時にクスクス笑いを差し挟みながら、ポトランは説明をはじめた。
「こいつは『ピーズナープ封印の書』と呼ばれているものだ。少年、知っているかね?」
 セルカは頭を横に振った。
「では教えてやろう。
 今では行方の知れない大魔術師、ヴィフィネンのことは知っているな? あの魔術師は単なる呪文(ラウシャ)の使い手ではなく、より古い魔法、ラウラの使い手でもあったと言われている。かの魔術師は現在は失われた魔法、ラウラを編み上げて、幾つもの使い魔を生みだした。日々の雑用をやらせたり、あるいは魔法研究の助手としても使ったという。だがある時、何の気まぐれか知れないが、とんでもない使い魔を、文字通りの魔物を生みだしてしまったのだ……」
 カーレがゴクッとツバを飲みこむ音がした。
「それは大地を砕き、天空を焼き染め、星を落とすほどに危うい存在だったという。ヴィフィネンは自らの創りあげた使い魔、ピーズナープの力を恐れた。そこでヴィフィネンは自らの手でピーズナープをこの本に封印してしまったのだ。いいか、よく聞けよ……」
 ポトランは本の一頁を開いて読み始めた。
「……ここだ。
 ”我、ヴィフィネン、ここに我が使い魔ピーズナープを封印せり。かの存在は強大にして、我が力及ばざる事を恐る。我、久しくかの者と共に過ごすも、かの者は底知れぬ者にて、その真実は暗黒に似る。ひとたび我が制約を離れたる折には、我に大いなる災厄をもたらしたり。災厄は瞭原の野火にも似て、際限なく広がり、かえって我を苦しめ、我を傷つけるものなり。故に、我は苦渋の末に、かのピーズナープをここに封印したるなり。努々(ゆめゆめ)、封印を解くことなからん……”」
 ポトランはパタンと本を閉じた。
「この力……大魔術師でさえ恐れる力……。どうだね、ゾクゾクしないかね?」
 ポトランは目を輝かせて二人を見つめた。
「おい、オッサン。あんた、大魔術師と言われたヴィフィネンでさえ扱いきれなかった使い魔を扱えると本気で思ってるのか?」
 セルカが皮肉な目つきでポトランを睨んだが、ポトランは平然としていた。
「少年、莫迦なことを言うものじゃない。自他共に認める三流魔術師のこのワシに、そんな怪物が扱えるわけがないだろうが」
「なんですって? それじゃどういうつもりなの?」とカーレ。
「ククク……。なあに、ワシはただ封印を解くだけさ」
「な……!」
「そうとも! ”災厄は瞭原の野火にも似て、際限なく広がり……” つまり、この水の都に放たれたピーズナープは、思う存分暴れてくれるだろう。この使い魔は、まさにシーアネス王国にとって ”大いなる災厄” となり、ベラ・ス・スクーツ諸侯国にとっては救世主となるわけだ──」
「あんた、わかってるのか!? それじゃあ、封印を解くあんたが、最初に殺されるんだぞ!」とセルカが怒鳴った。
「なに、心配はいらんよ。ワシはもう死など恐れてはおらんからな」
「死を恐れていない……?」カーレが不審そうに呟いた。
「そうか!」セルカが出し抜けに叫んだ。「さてはあんた、ヨクハイヌ(暗黒神)に魂を売ったな!? 夢の蛇の力はヤツから授けられたんだな!」
 セルカのその言葉に、ポトランの奇妙に明るい表情が消え、死んだ魚のような目つきに変わった。
「ピメントラ(暗黒の国)の王、偉大な我が主を呼び捨てにするとは、許し難い不遜だ……! 少年、貴様の運命は極まったぞ……!」
 そこでポトランは出し抜けに明るい表情に戻った。
「とは言え、元々ここで死ぬ運命だ。今更、どうということもあるまいよ。ククク……」
 それだけ言うと、本を床に置いて、ポトランは傍らの柱にかかった松明を手に取った。
「さて……」
 呟くと、ポトランは手にした松明を床の本へ押しつけた。
 油を含んだ革の表紙はたちまち燃え上がり、真っ赤な炎の柱が立ち上がった。
「さあ、現れるがいい! 大いなる災厄、災禍の源、ピーズナープよ!」
 ポトランの叫びに応えるように、火柱の中に揺らめく影が現れ始めた。

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