『エレギの写本をめぐるささやかな冒険』
(1st edition)


7、ピーズナープの災厄


 火柱の中の影は、次第にその闇色を濃くしてゆく。
「おお……!」ポトランは感極まったように感嘆の声をあげた。
 木箱の山の前に転がされた二人は、まぶしい火柱に目を細めた。
 炎の柱は天井まで達すると、ユラユラとしたままに安定し始めた。
「何と美しい……。これが災厄をもたらす者、ピーズナープか……!」
 感動に震えるポトランの声に、しかし火柱の中から声が応えた。
「……それは違うな、炎を讃える者よ……」
 低く、他を圧するように威厳のある声。王者たるものなら、こうした声でありたいと願わずにはいられないような、権威に満ちた声が轟いた。
「な、何……?」とカーレ。
「シッ! 黙って!」とセルカが制した。「どうも様子がおかしい……」
 炎の揺らぎの中から、黒々とした影がクッキリとした輪郭を見せ始めた。
「ピーズナープではないだと!? どういうことだ!?」
「……それもまた違うな、理を知らぬ者……」
 炎の中のすがたは、いよいよハッキリとした形を見せ始めた。
 その姿は、長い黒衣を纏った老人のようだった。けれども、表情だけはどうにもハッキリせず、それがかえって強大な力を思わせた。
「……我が名はヴィフィネン。封印の解錠者たちよ、そなたらは封印を解くために我が問いに答えねばならぬ……」
「何だと!?」ポトランが怒鳴った。「そんな話は聞いていないぞ!」
「……それはそなたの勝手というものだ、無知なる者。そなたらが真に封印の解錠者であるならば、我が問いに答えねばならぬ。答えたるときはよし、答えざる時は、常つ闇の中で永劫の迷いに苦しむことになる」
「ま、待て! 待ってくれ!」とポトラン。「そ、そんなことになれば、我が主たるお方に、死よりも怖ろしい罰を与えられてしまう!」
 火柱を前に、ポトランは恐怖に身をすくませた。
「……哀れな愚か者よ。我が身は肉体を持たず、魂すらもたぬ。ただ問いを投げ、答を聞くのみ。さあ、我が問いを聞け!」
 炎の中の魔術師は、サッと右手を振り上げて、問いを告げた。
「……神々の言う、真の歌のはじまり、すべてのラウラのもとは何か? 我が耳に響かせよ、その歌声を!」
 ポトランは炎の前で立ち尽くした。三流の魔術師に過ぎないポトランが、ラウラの一小節さえ知っている道理がなかった。
 立ち尽くすポトランの背後に転がっているカーレも動揺していた。
「ちょ、ちょっと、セルカ!」カーレが低く囁いた。「ね、ひょっとして、あいつが答えられないと、私たちも闇に閉じこめられるってこと!?」
「そういうことになるな」セルカが低く答える。「あの魔術師の言葉を信用するなら、な」
「そんな落ち着いてる場合じゃないでしょ! セルカ、あなた何とかできないの!?」
「無理だな……」溜息まじりにセルカが呟く。「せめて、この夢の蛇の束縛が緩めば……」
 それっきり、ふたりは黙り込んで、火柱を前に立ち尽くすポトランの背中を見つめた。
 沈黙の中、炎だけが不気味に音を立てる。
「……さあ、時は過ぎる。歌声は……?」
「うう……」
「……『うう』? そんなものではないぞ、謡わぬ者……」
 ポトランは死よりも怖ろしい運命を予感して、恐怖のあまり小刻みに震え始めた。
 その時──
 ポトランの背中ごしに、セルカの歌声が朗々と響き渡った。
 ポトランの激しい緊張が、夢の蛇の束縛を緩めたのだ。
 高く、低く、地下倉庫の中を、古い旋法に乗ったセルカの歌声が満たした。

 言葉は言葉より 燃えそめ
 閃火はこの世を照らす──
 黄金の鎖に伸び伸びと
 一句 また一句と 歌ぞ織りなさる──

 舌が一の句を吟ずるひまに
 二の句はこころより流れ出る──
 詩句こそは伶人(うたびと)の道標なれ
 道標の導くままに 伶人は導かれ詠う──

 セルカの歌声は闇の中へと消えてゆき、あたりを再び沈黙が覆い、やがて炎の柱が再び大きく立ち上がった。
「……そなた、ラウラを知る者よ、汝を封印の解錠者と認む……」
 炎の中の影はセルカを指さしてそう告げると、両手を高々と掲げた。
「……大いなる災厄にして魔術の災禍、ピーズナープの封印は解かれた!」
 その声と共に、炎は凄まじい勢いで炸け飛び、あたり一面を凄まじい輝きが包んだ。
 サッと目をかばったセルカは、数瞬の後にゆっくりと目を開いた。
「な……なんだぁ!?」
 そこにはもう火柱はなく、ただポトランが呆然と立ち尽くしているだけだった。
 そして封印の本があったはずの場所には、ニコニコ笑って子供が浮かんでいる。
「……先生(オファヘーヤ)!」
 ニコニコ笑う子供は、男とも女ともつかない幼い声でセルカをそう呼ぶと、軽やかに床を駆けてセルカの足許へ走り寄った。
 セルカは呆然としたまま、子供を見下ろした。
「あの……ひょっとして、ピーズナープ……?」
 セルカを見上げた子供は、さも嬉しそうに、うんうんと頭を縦に振った。
 若草色のスモック、肩まで届きそうな黄金色の髪、夏空色の青い瞳。年齢は……十歳くらいだろうか。少女なのか少年なのか、その顔立ちからは判然としない。ひたすら嬉しそうに、ニコニコと笑っている。
「うそ……」呆然と呟いたのはカーレだった。夢の蛇の拘束が解かれ、ゆっくりと身体を起こしながらも、ピーズナープから目を離そうとしない。
「うそじゃないよ」
 ピーズナープは笑いながらカーレの側に駆け寄った。
「あたし、ピーズナープ。おばさんは?」ニコニコと笑いながら、無邪気に尋ねる。
「……おねえさんは、カーレ、だけど……」
 茫然自失のままに、しかしさりげなく「あばさん」を「おねえさん」に訂正しつつ、カーレはセルカに顔を向けた。
「ちょっと、セルカ、これってどういうこと!? この子のどこが”大いなる災厄”なのよ!?」
「……そんなこと、俺が知るか」
 半ば諦めにも似た気持ちになって、セルカは呟いた。
「ひょっとして、あの魔術師のタチの悪い冗談につき合わされたんじゃないのか?」
「だって、だってあんなに大げさな事言って、これがその結果なの!?」
「だから俺に言っても仕方ないだろ!」
「あなたに言わないで誰に言うのよ、少年!」
「どうでもいいけど、少年はやめろ!」
 そんなセルカとカーレのやりとりを可笑しそうに見ていたピーズナープは、ふともう一人の人物に気がついた。呆然として立ち尽くす、ポトランである。
 口論の最中の二人を後目に、ピーズナープはポトランに駆け寄って、そのひげ面を見上げて無邪気に尋ねた。
「あたし、ピーズナープ。おじさんは?」
 その瞬間、セルカとカーレの口論はピタッと止まって、二人は凍りついた。
「おじさんか……」ポトランは悠然とピーズナープを抱き上げると、笑った。「おじさんはポトランとかドランとか呼ばれている。本当の名前は、忘れてしまったけどね」
 そして、まるで丸太のような右手をピーズナープの首にかけた。
「よーし、お二人さん、動くんじゃないぞ。少しでも動いたら……わかってるな?」
 その言葉にピタリと動きを止めたセルカとカーレを、ポトランの腕の中から、ピーズナープは不思議そうに見つめている。
「往生際が悪いぞ、オッサン!」とセルカが怒鳴った。「そんな子供をどうするつもりだ? もうあきらめろ!」
「ふん、何をいうか! あの大魔術師が”大いなる災厄”とまで言った存在だぞ。今はこの姿でも、何かのきっかけで真の姿を現すに違いない」
「ポトラン、もう無駄なことは止めなさい!」とカーレ。「だいたいそんな、私たちと縁もゆかりもない使い魔を人質にして、私たちが怯むと本気で思うの!?」
「……お、おい、カーレ」セルカが低い声で囁く。
「……黙って、セルカ。駆け引きって、こうするものなのよ」カーレは囁き返すと、ポトランに向かって怒鳴った。「さあ、どうするの、ポトラン!」
 しかし、カーレの言葉にポトランはニンマリと笑みを浮かべた。
「ククク、貴様こそ無駄なハッタリは止めるんだな。仔猫でも、一度抱けば情が移るもの。ましてやこの姿だ。いいや、貴様らにはどうにもならんよ」
 そういって、ゆっくりと背後の暗がりへと後ずさりを始めた。
「動くなよ、少年!」暗がりからポトランの声が響く。「魔法なぞ使ってみろ、この小娘の首をへし折るからな!」
「てめえ……この卑怯者!」
「おう、卑怯で結構! 悪者バンザイだ! いやいや、正義の味方も辛いよなぁ」
 ポトランは嘲りを込めて笑うと、さらに入り口へと後ずさっていく。
「ねえ、おじさん」腕の中のピーズナープが、ポトランを見上げて尋ねた。「おじさんって、わるものなの?」
 ピーズナープの直裁な質問に、ポトランは一瞬怯んだが、すぐにニンマリと笑った。
「そう、おじさんは悪者だ。だからいい子にしてないと、お嬢ちゃんもひどい目に遭うかもしれないよ。おじさんの言うこと、わかるよね?」
「わるものはイヤ! はなして!」
 ピーズナープはその言葉に、ポトランの腕の中で激しく身をよじった。
「こ、こら! 暴れるな!」
「先生!」ピーズナープは、大声でセルカに向かって尋ねた。「あたし、このおじさんをやっつけていい?」
 ポトランはギョッとした表情を浮かべ、尋ねられたセルカも何と答えるべきか一瞬迷った。けれどもその迷いは短かった。
 すかさず、セルカはピーズナープへ向かって怒鳴った。
「ピーズナープ! その悪者をやっつけろ!」
 その瞬間、ポトランの腕の中の少女は真っ赤に変わった。まるで大地の底から吹き出す溶岩のように、灼熱に自らの身を包みこんだのだ。
「ぐわあっ!!」
 熱さのあまり、ポトランはピーズナープを手放してしまう。
「手が、手がぁ!!」
 灼熱に腕を焼き熔かされて、ポトランは地下室の床をのたうち回った。
 しかし、床にスックと立ったピーズナープは、さらに灼熱の度をまして、凄まじい輝きに身を包んだ。まるで太陽の輝きそのものを一身に集めたかのように。
 光りに包まれたピーズナープは、やがて低く唸り始めた。それは声ではなく、まるで空気が輝きに耐えきれなくなって震え始めたように、ビリビリとした振動を伴った唸りだった。
「な、何? 何が始まるのよ?」カーレは唖然として、輝きに目を細めた。
「ヤバイ!」とっさにこの事態の危険を察したのはセルカだった。「カーレ、臥せろ!」
 叫ぶと同時に、カーレを床に抱きふせて、守護の呪文を唱え始めた。
 その呪文が終わった直後、地下室は凄まじい輝きと振動に満たされた。
 そして──

 明け方近くのラングネースに凄まじい爆音が轟き渡り、地上から無数の稲妻が夜空へと駆け上がった。
 その爆音の凄まじいことは、はるか数十リーグ離れた王都でも聞こえたほどだという。あるいはラングネースの遙か南、アルケー諸島の漁師たちは、遙か北方の光柱を見て、神々の再臨かと思いその身を臥せ祈ったという。
 死人でさえ目覚めるほどの大音響のなか、家を飛び出したラングネースの人々は、そこにあるはずの建物がひとつ、なくなっていることに気がついた。
 大運河沿いに立つ豪壮な白漆喰の館、ドラン商館が何一つ残すことなく姿を消していたのだ。その時にはただ、館の跡には巨大な穴が開いていて、今にも運河の水が流れ込み、その大穴を満たしはじめていたのだった。

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