『エレギの写本をめぐるささやかな冒険』
(1st edition)


結び、裏通りの煙草屋


 ほのかに甘い香りを立ちのぼらせる焼きたての蜂蜜パン。
 陶皿には、薄切りの塩漬け肉、シャキシャキした野菜、それに炒り卵。
 盃には真っ白なヘルガの乳が満たされてい、卓の白い布に朝日が映え、葦籠には瑞々しい野苺が盛られている。
 食卓にならべられた無数の料理に、セルカは思わず声をあげる。
「ああ、これこそイルマタールの恵み、これこそ朝食!」
 ……そんな豊かな食卓の、それは回想だった。
 水都の裏町にある煙草屋の中で、セルカは卓に並んだ空の陶皿を見つめ、頬杖をついていた。
「腹、へった……」ひとり呟く。
 いや、正確にはひとりではない。
 セルカは視線を店の奥へと泳がせた。
 そこには、満ち足りた様子の少女がひとり、楽しげに歌を口ずさみながら、ゆったりと流れる運河を見つめていた。いわずと知れた、ピーズナープである。

 あの騒動の後──
 気がついてみれば、セルカはピーズナープを左手に抱えて、カーレと共にドラン商館の跡から逃げ出していた。
 なにしろあれほどの騒動を引き起こしたのだ。野次馬は集まるだろうし、すぐにラングネース司政官府の守備隊が飛んでくるのは確実だった。そうなれば、根ほり葉ほりと色々訊かれることになってしまう。カーレにしろセルカにしろ、細かな事情を説明するわけにはいかないのは同じだった。
「じゃあね、セルカ」大運河近くの船着き場で、カーレは別れを告げた。「今回はこんな事になっちゃったけど、次はもっとマシな依頼を持っていくわ」
「もうあんたと関わるのはゴメンだ」とセルカ。「次は別のヤツに頼むんだな」
「あら、少年、そんなこといっていいのかな?」カーレは人の悪い微笑を浮かべた。「少年、あなたが単なる魔法使いではなく、ラウラの使い手だったなんて知れたら、世界中の魔法使いがあなたを狙うことになるんでしょうねぇ」
「……。どこまで卑怯なんだ、てめえは」
「なんとでも」コロコロと笑うと、カーレは手を振った。「じゃあね、セルカ」
「待て!」
「なあに?」
「……報酬」
「あら、憶えてたの……」
 少し悔しそうに笑うと、カーレは革袋をセルカに投げ渡した。
「それと、このピーズナープって子を、どうするつもりだ?」
「あら、私は独身なのよ。まさかいきなり子持ちにもなれないでしょうに──」
「莫迦! 俺だって独身だぞ! コイツもちゃんと引き取ってくれるんだろうな!?」
 しかし、カーレは渋い面構えの船頭に向かって、「それじゃ、行きましょう」と告げて、セルカに手を振った。
「それじゃあね、セルカ。ピーズナープが目覚めたら、『おねえさん』がよろしくと言っていたと伝えて頂戴」
「おいこら、ちょっと待て! まだ話は終わってねえぞ!」
 しかし、平底舟はスルスルと大運河へと進んでゆき、カーレの姿は小さくなっていった。
 船着き場には、少女を小脇に抱えたセルカが呆然と立ち尽くしていた──

「──こりゃ、先生(オファヘーヤ)、聞いとるのか!?」
 セルカの回想は突然の塩辛声に破られた。
 ビクッとしたセルカは、そこに小柄な婆さんが立っていることに気付いた。
「なんだ、スオバッコの婆さんか。驚かすなよ」
「何だ婆さんか、じゃないわい。まったく……」
 それから、婆さんは杖で店の奥を指した。
「それより、ちょいと先生、あの娘は何だい?」
 杖の指す先には、実に満ち足りた表情でスヤスヤと寝息をたてるピーズナープの姿があった。朝食が済んで、温かな日差しに眠気を誘われたものらしい。
「先生が子持ちとは知らなかったよ。あんな可愛い、大きな嬢ちゃんがいたとはねぇ」
「いや、違うんだ、婆さん。これは話せば長い話なんだが、つまり、あのピーズナープは俺の子じゃなくて──」
「ほお、ピーズナープというのかい」不思議そうな表情で、婆さんは呟いた。「また変わった名前を付けたもんだねぇ。まるで魔物の名前だよ。あんな綺麗な子供にそんな名前をつけるなんて、あんたらしいけどねぇ」
「婆さん、だから違うって……」
「どうでもいいさ、そんなことは。それより、カーレとかいう恋人の仕事はどうなったね? きっちり稼いできたんだろうね?」
「う……」セルカは一瞬、言葉に詰まった。「その、稼ぐには稼いだよ。十クルトほど……」
「十クルト!」婆さんは感心したように言った。「先生、いや、大したモンだ。それで借金が三分の一は返せるじゃないか!」
「いや、婆さん、その、稼ぐには稼いだが、その……」
「何だい? えらく歯切れが悪いね」
「その十クルト、使っちまった……」
 スオバッコの婆さんは、その言葉にパカッと口を開けた。
「使った……使ったって、十クルトもいったい何に!?」
「その、食費に……」
「食費!?」婆さんは唖然とした表情を浮かべ、そして叫んだ。「こ、この、大莫迦もの!」
「申し訳ない!」
「ええ、あたしゃもう知らん!」
 そう怒鳴りつけると、婆さんは肩を怒らせて出ていってしまった。
 セルカは一瞬、天を仰いで、それから視線をピーズナープへと向けた。
 何とも幸せそうな顔をして、黄金色の髪の少女はスヤスヤと寝息をたてている。
「大魔術師ヴィフィネンが扱いきれなかった存在、か……」
 セルカは確かに十クルトを稼いだ。それで借金の三分の一が返せる筈だった。
 しかし──
「先生……」その時、微睡みから目覚めたらしく、大きな青い目をこすりながらピーズナープがセルカに言った。「あたし、おなかすいた」
「お昼はまだ! さっき、朝ご飯たべたばっかりだろ!」
「だって、おなかへったんだもん」
「我慢しなさい、我慢!」
「……はあい」
 そう、この恐るべき食欲。これこそ十クルトをあっさりと消費してしまった原因なのだ。
 かのドラン商館を吹き飛ばした際に浪費した力が余程に大きかったのか、はたまた単に底なしの食欲を備えているだけなのか。ともかく、このピーズナープという少女は、恐るべき食欲の持ち主であり、とてもではないがセルカ自身の食事を考えるゆとりなどなくなってしまった。サイフは底をつき、胃の腑は空っぽだった。
「……”大いなる災厄、魔術の災禍”……」セルカは呟いた。「あの道化魔術師め……。本当に、俺にとっちゃ大いなる災厄だよ……」
 窓の外を、ゆっくりと平底舟が滑ってゆく。
 それを見つめながら、ピーズナープは言った。
「先生、おなかすいたぁ……」
 セルカは机に突っ伏して、答えた。
「ああ。俺も、腹へったよ……」
 燦々と日の射す裏通りの煙草屋の、いつもと変わらない夏月の朝の風景であった。


<おしまい>

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