4、
「待ってたよ、お姉ちゃん……ずっとずっと……会いたかった……」
森から現れた少女は、長いドレスの裾を地に這わせるように、少しずつ歩み寄ってくる。その姿は、森の妖精を思わせた。
「リエル……私も、会いたかったよ……」
わずかに微笑んだアイラの表情には、喜びのほかの感情がまじっているように、ユアンには見えた。
「……ユアンさん、あれが私の妹です。もう大丈夫ですから、お帰りください」
アイラは妹から目を離さないまま、かすれた声でユアンにささやいた。ユアンはふいに現れた可愛らしい少女をじっと見つめた。
――あれが、アイラの妹か……。3つ下って言っていたが、もっと幼く見えるな。……でも、連れはいないんじゃないのか?
「アイラ、よく見りゃ妹さんだってひとりだろ。危なすぎる。やっぱり……」
「いいから、早く帰って!!お願いだから……!」
いきなり空気を引き裂くように叫んだ少女に、ユアンは驚いてその顔を見返した。目の前には、少女の泣きそうな顔があった。
「……あなたを、巻き込みたくないんです。お願いします……」 リエルの澄んだ声が、再び響いた。
「……お姉ちゃん、どうしたの?早く近くでよく顔を見せて。……それとも、私をここに置いて行っちゃうの……?あのとき、お母さんがそうしたみたいに……」
アイラに更に問い返そうとしていたユアンは、口を開きかけて、そのまま凍りついてしまった。アイラの肩越しに、信じられないものを見てしまったからだ。
妹のドレスの裾から、樹の根のようなものがのぞいていた。大木の根の上に立っているのではない。それがリエルの身体を支えているようであった。
ざわ、と、池の向こうの大木が揺れた。リエルの足から伸びた根は、池を経由して大木から伸びている。よく見ると、美しく白かった腕や首も、みしみしと音を立てて、木の根の先端が巻きつき、どす黒く変わりつつあった。
「……お姉ちゃん、あたし怖かったよ。猛獣や虫がたくさんいる森にひとりぼっちで、ずっとずっと泣いてたんだよ。……でも、お姉ちゃんは来てくれなかった。あたしがここに捨てられたの知ってたのに、来てくれなかった……」
リエルの愛らしい顔が、みるみるうちに変貌していく。口が耳まで裂けるように割れ、瞳はネコのように縦長に鋭く光った。
「こンどは、オねえチャんが、ここに置いテいかれル番だよ……」
ざわざわと木々が揺れる中、豹変したアイラの姉は、もはや人間の姿をしていなかった。それは大樹と融合した森の主そのものだった。
「……うそだろ……」
ユアンが呆然と立ち尽くしていると、アイラは、ゆっくりとその顔を上げた。その表情はユアンの予想に反して、全てを理解したような感があった。
「……やっぱり、人を襲う森の化け物というのは、リエルだったの……」
「…どういうことだ……」
やっとのことでユアンは訊ねた。いま目の前で起こっていることが、にわかに信じられなかった。でも、アイラは全てを知っている―――。そんな気がしてしかたなかった。
「……私たちの家は貧しくて、家族が食べていくのもままならない生活をしてたんです。父を早くに亡くして……母は、女手ひとつで私たちを育てていましたが、その生活は苦しくて、私たち姉妹に辛くあたっていました……」
禁断の書を紐解くような表情で、アイラは静かに語り始めた。その瞳はユアンではなく、過去の自分たちの姿を映している。
「母はよく言いました。『いつか、あんたたちを遠くの森に捨ててきてやる。そうしたら、もっと生活が楽になるんだ』って。小さい頃からそれを聞いてきた私たちは、いつもそれに怯えて泣いていました。いつか、いつか見捨てられて、どこかの森に置き去りにされるんじゃないかって……」
アイラの悲しみを帯びた瞳が、変わり果てた妹にゆっくりと向けられた。
「そんな辛い日々も、妹とふたりで励ましあいながら、なんとか乗り切ってこられたんです。『お母さんに見捨てられないよう、頑張ってお手伝いしようね。早く大きくなって、家計を助けられるように働こうね』って。……でも、私が16歳のとき……」
森の木々が、ざわり、と鳴いた。
「……ある日突然、朝起きたらリエルがいなくなってて―――。母を問い詰めたら、そっけない声で『養子にやった』って。……でも、私にはそれが嘘だとわかった。リエルはどこかの森に捨てられたんだって。昔から言われていたとおりに……。母は、16まで育てた私は捨てずに、労働力として手元に置くことにしたようでした。……私は、その時点ですぐにリエルを探しにいくべきでした。姉として、ひとりぼっちで死の恐怖に震えているだろう大切な妹を、一心不乱に探すべきだった……なのに……」
唇をかみしめて、アイラが声を詰まらせたとき。
大樹から伸びた木のツルを、触手の漂わせていたリエルが、絞り出すような鈍い声を出した。
「…オねえちゃん……あタしより、恋人ヲ選んダ……自分ダけ、恋人ト幸せニなろウとした……」
「…え……?」
ユアンは驚いて、アイラとリエルを交互に見た。
アイラはその視線に耐えかねるよう、視線を逸らし、
「……私、将来を誓い合った相手がいたんです。いつか結婚して、幸せな家庭を持とうって……そう言ってくれる人でした……。ほんとにほんとに嬉しくて、その日が来るのを心待ちにしていたんです。……そんなとき、リエルが母に捨てられ、私は残った……。でも…私……村を出られなかった。彼と幸せになりたかった。妹を探すあてのない旅に出たら、その夢はきっと叶わなくなる。……そう思ったら、足がすくんで動けなかった。彼を、失いたくなかった……。……私……リエルを見捨てて、自分だけ幸せになる道を選んでしまったんです……」
池の上を静かに風が通って、二重三重の波紋をつくった。
「……でも、神様は私の罪を見ていらっしゃった。……先月、結婚してすぐに、彼が病気で命を落としました。最愛の妹を裏切った罰に、神様は、私が妹と引き換えに手に入れた一番大切な存在を奪ったんです……。葬儀の後、魂の抜けたような私の耳に飛び込んできたのは、3年ほど前からレバンの森に現れた、人を襲うという化け物の話でした。……人を襲った後、必ず傍らに蝶の羽を置いていくという話を聞いたとき、私の中で直感めいたものがうごめいたんです。昔よくリエルに読んでやった絵本に、兄弟に裏切られた王子が、その意志表示に蝶の羽をベランダに置いていくシーンがあった。……それを思い出したとき、思ったんです。『森にいるのはリエルだ。人を襲っては蝶のメッセージを私に送ってきているんだ。……裏切って見捨てた私を、あの森でずっとずっと待っているんだ、って……」
そこまで話すと、アイラはせきを切ったように涙をこぼし、嗚咽をもらした。後悔と自責の思いであふれた泣き声だった。
「……ごめん……ごめんね、リエル……ずっとずっとこの森でひとりぼっちで、怖かったよね……寂しかったよね……ごめんね……」
ユアンはアイラの告白を、ただただ立ち尽くして聞いているしかなかった。道中ずっと疑問に思っていた、アイラが森へ行く理由。それは「人間を襲う森の化け物と化した妹に会う」という、想像しえなかった辛いものだった。
と、突然森がざわめき出した。同時に、引き裂くようなリエルの叫び声が響いた。
「ダマレ……ダマレダマレ!!!3年アタシヲ放ッテオイテ、今更許シヲ請ウ気カ!!アタシガドンナ思イデ、コノ森デ夜ヲ明カシタト思ウ!オマエガ幸セニ浸ッテイタ頃、アタシガドレホド恐ロシイ思イヲシタカ……!!アタシニハ……アタシニハ、人間ヲ捨テテ、コノ森ト同化スル以外ニ、恐怖カラ逃レル方法ハ無カッタノニ……!」
涙に濡れた顔を上げ、アイラは妹を見上げた。
「……リエル……」
「モウ止マレナイ……!コノ大樹ハ人間ノ血ノ味ヲ知ッタ……アタシノ憎シミヲ糧ニ、コレカラモ、タクサン、タクサン人間ヲ襲ウ……!!オ前モ……オ前モダ……!」
狂ったように樹のツルがうごめいた。黒い幹の一部となったリエルのその目は血走り、外見、精神ともに正常ではではないことが一目瞭然だった。
森全体が怒りを表しているような周囲の様子に、ユアンははっきりと危険を感じた。もはやアイラの妹は、人間の心を失ってしまっている。それが、森での孤独と恐怖を味わい続けた幼い少女のなれの果てであるとしたら、なんてやりきれない事実なのだろう。
しかし、ここで呆然としているわけにはいかなかった。彼には護衛人としての務めがあるのだ。
ユアンはわずかに歩み出て、泣きつづけるアイラにささやいた。
「……アイラ、残念だけど、キミの妹さんはもう森の一部になってる。このままでは、あんたの身も危ない。俺が合図したら、全力でここから離れるんだ」
オオン、と森が鳴いた。
ふたりが通ってきた道が、見る間に木々の枝と葉で閉じられていく。ユアンはアイラの腕を掴んだ。
「さあ、一刻の猶予もない。森を出るまで走るんだ!」
アイラは顔を上げた。
その表情を見て、ユアンは言葉を失った。涙をぬぐい、ユアンを見たその瞳は、驚くほど穏やかだった。
「……私、ここに残ります。……もう、リエルをひとりにしないって決めたから……」
ユアンは驚愕してアイラを見つめ返した。
「……何をバカなことを……!」
そう言いかけて、言葉が詰まった。アイラの表情は、くつがえることのない決意の固さをあふれさせていた。
「最初から決めていたことですから……最期くらい、姉らしいことをしたいんです」
そう言った瞬間、少女はユアンを突き飛ばした。完全にふいを突かれた護衛人は、来た道に倒れ込むように手をついた。その空間を引き裂くように、木々がものすごい速さで少女と護衛人を隔てていく。慌てて立ちあがったユアンだったが、もはや、アイラの立っている場所に行くことは不可能だった。
「……ユアンさん」
アイラは、木の壁の向こうで微笑んだ。
「短かったけど、一緒にいられて、とても嬉しかった。森に来るまでの間、まるで亡くなった彼と旅をしているみたいで、すごく穏やかな気持ちでいられました。……最後にそばにいてくれたのが、あなたでよかった……契約したのに、一緒に帰れなくてごめんなさい」
「アイラ!!」
「……どうか、ご無事で……」
ユアンは、前方を塞いだ木々を剣で何度も切り払ったが、ざわざわとうごめく壁は、いっこうに道を開いてはくれなかった。
「くそっ!!アイラ、待て!行くな!」
懸命な訴えにも応えず、少女は背を向け、愛しい妹のもとへと歩きはじめた。
「リエル……これからは、私がずっと一緒にいるから……。もう寂しくないよ……だから、もう誰かを傷つけるのはやめて……」
池の水面が波打った。その後ろの大樹が、ごおっと風を受けて大きく揺れる。
「ウルサイ……!アタシノ孤独ト恐怖、思イ知ルガイイ……!」
大きく裂けた口から、リエルが憎しみの声をほとばしらせた。それに合わせて、ツルがアイラに伸びてくる。しかし、それでもアイラは歩みを止めなかった。
「いま、そっちへ行くからね……」
「アイラ、やめろ―――!」
数え切れないほどの樹の根とツルが、一斉にアイラに覆いかぶさった。
そこから先は、ユアンは見届けることができなかった。樹の壁に押し出されるように、来た道を戻らねばならなかった。
森全体に追い出されるかたちで、ユアンが森をを転がり出たとき。
『……お姉ちゃん……』
かすかに、幼い少女の声が聞こえた気がした。
ハッと振り返ったときには、森はもう静まりかえっていた。ただ、森への唯一の入口だった場所が、膨大なバラの垣根で埋め尽くされ、何者の侵入も拒むかのように生い茂っていた。
まるで、姉妹の絆を知らしめるかのように―――。
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