『終わりなき冬の物語』





 謁見の間は、途方もない奥行きと高さをもった部屋でした。エルが上を見上げてもどこまで高いのかよくわからないほどで、どうも星のような煌めきがチラチラ見えたほどです。正面には女神の玉座へ続く長い長い絨毯がしかれていました。立ち並ぶ列柱は、一本一本が千年の時を閲した杉の巨木のように太く、エルは何本あるのか途中で数えるのを諦めたほどでした。

 どれほど歩いたでしょうか、ようやくエルは女神の玉座の前につきました。玉座はやはり透明な結晶のようで、背もたれは人の背丈の何倍もありました。玉座のまわりを彩る無数のタペストリーには、歴史や文学、神話を題材にしたらしい図案が奇跡のような美しさで刺繍されていました。

 でも、玉座にはだれも座っていませんでした。エルはあわてて辺りを見回しましたが、人っ子ひとり見あたりません。と、遠くで鈴を鳴らしたような、やわらかな声がしました。
「……少年よ、そなたの右側の扉から、バルコニーへ出ておいで。わらわはそこにいます」

 見ると、確かに右側には開け放たれたガラス扉があって、その向こうには広場ほどのバルコニーが続いていました。エルはバルコニーに駆け出て、そこでとうとう女神ワイの後ろ姿を見ました。

 大きく背中の開いた黒い紗布の衣をまとった女神ワイは、じっと外の景色を見ているようでした。その女神の背中の白いことといったら、どれほどの雪を集めてもこれほど白くは見えないだろうと思われるほどでした。エルは一瞬、何も言えずに後ろ姿を見つめたあと、勇気を振り絞って声をかけようとしました。
「あの……」

 その瞬間、女神ワイは静かにエルを振り返りました。

 その瞳の、何と黒々として美しいこと! 白磁のような肌も、濡れた烏羽のような黒髪も、奇跡のような美しい顔も、女神の黒曜石を磨き上げたような瞳に及ぶところではありませんでした。そして、天上の星々の光を宿すその瞳の、なんと優しそうなことでしょう。エルは言うべき言葉を失ってしまい、その瞳から目をそらすことができませんでした。エルは祖母から聞いた言葉を想い出しました。冬の女神ワイは、四人の女神の内で最も気高く、最も美しく、最も強く、そして最も聡い……。

 どれほどのあいだ見つめていたのでしょう。ハッとエルはわれに帰ると、ひどく失礼なことをしたような気がして、真っ赤になってうつむいてしまいました。すると女神ワイはやさしくエルに声をかけました。

「……少年よ、そなたはここに、わらわに伝えたいことがあって来たのでしょう? 言葉はわらわたちの贈り物。どうかそなたの言葉をきかせてください。声にしなければ伝わらないこともありますよ」

 鈴の音を思わせる女神のやさしい言葉に背中を押されるように、エルはボソボソと言いました。
「女神さま、冬の女神さま、オレの言いたいことは……」

 エルはそこで口ごもってしまいました。女神はエルに黙って視線を注いでいます。エルは決心したように顔を上げて、言いました。
「オレの言いたいことは、ごめんなさいってことなんです。みんな、冬の女神さまがキライだって、だから追い払うって、でもオレ、みんなを止められなくて、だから──!」

 そこまで言うと、エルは絶句してしまいました。高ぶった心がそれ以上言葉を発することを阻んでしまい、目からは涙があふれて、かすかに嗚咽がもれました。どうして泣いているのか、エル自身にもよくわからなったのですが、でも不思議と恥ずかしいという気持ちはしませんでした。

 うつむいて嗚咽をもらすエルに、女神はそっと手を差しのべて、エルの涙をぬぐいました。エルはこの時はじめて、冬の女神の手がとても温かいこと、そしてあれほど大きく見えた姿が、実は大人の男性くらいの背丈しかないことに気付きました。

「……少年よ、そなたは優しい子。わらわの哀しみを己のものとして、共に泣いてくれるのですね。そなたの言葉は、わらわの心を動かしました。たどたどしくとも、訥々(とつとつ)としていようとも、そなたの言葉はわらわに、言葉という贈り物をしたことを後悔させないものでしたよ」

 そういって微笑むと、女神ワイは再びバルコニーからの景色に目を転じました。
「……少年よ、あれを見てごらん。この宮に近づいてくる者たちの姿が見えるでしょう? あれはソラノの長、デール。他の者はきっと多くの人間の代表者でしょう。きっとわらわに謁見を求めてここへ来るのですよ。平然と大森林を抜けて来たからには、他の女神たちも彼らの側に立つことに決めたようですね」

 女神ワイの言葉は前と変わらず優しいものでしたが、エルは一瞬ゾクリと背筋を走るものを感じました。
「冬の女神さま──」
「ワイでかまいませんよ、ソラノのエル」
 女神は微笑んで言いました。けれど、視線は相変わらず宮に向かってくる人々に向けられたままでした。

「ワイさま、あいつらをどうするおつもりなんですか? まさか……」
 エルは、殺すつもりなんですか、という言葉をのみ込みました。今まであれほど優しげだった女神の姿が、殺すという言葉が頭に浮かんだ瞬間に、途方もなく怖ろしげな姿に思えたからです。

「……わらわはなにもしませんよ、エル。彼らの話を聴いて、それから決めることですからね。いずれにせよ、わらわは言われているような、冷酷無慈悲な死の主ではありませんから。彼らが何を言うにせよ、彼らは無事ここを去ることになるでしょう」
 そういって、女神ワイはエルに視線をむけて言いました。

「エル、そなたはどうします? 彼らのそばにいれば、ソラノへ帰ることもできる。けれど、わらわのそばにいれば、そなたは二度とソラノへは帰れませんよ。帰れば、裏切り者として殺されかねないからです」
 エルは間髪いれずに答えました。
「オレ、お側にいます。いえ、いさせてください!」

 女神はこの答えに微笑みました。けれどそれはどこか儚げな、悲しげな微笑みでした。
「……そう、それもいいでしょう。では、わらわの傍らにいなさい、エル。彼らには三人の女神の加護がある。けれど、わらわにもエルの優しい心がついていてくれると思えば、心強いですものね」

 そして、女神ワイはエルの手をにぎって、ふたりは謁見の間へと歩き出しました。
 エルは、その手の温かさを生涯忘れることはありませんでした。





 女神ワイが玉座に戻ってしばらくすると、オオウミガラスがヒョコヒョコとした足取りで現れました。その後ろには、宮の壮大さ、謁見の間の広大さに呆気にとられた様子の人々が続いていました。

 しかし彼らの驚きも、女神ワイの姿を目の当たりにしたときの表情には遠く及ばないものでした。畏怖に打たれ、その美しさに心を奪われてしまったのです。

 オオウミガラスが、ピョコンと一礼して告げました。
「女神ワイさま、こちらの方々がワイさまとの謁見をお望みのよし、お取り次ぎいたしまするよう仰せつかりおりまするゆえ、ご案内いたしましたのは、まず、ソラノのデール、クラドのイスナ、タニスタのレイモン、ウォルトリアの──」

「そのあたりでよい、オオウミガラス。わらわは死すべき定めの者の名は全て存じておる」

 その声にだれより驚いたのは玉座の傍らに立っていたエルでした。先の、まるで鈴が鳴るようなやさしい声とはまったく違っていて、その声はあたかも氷が軋むような、背筋も凍る声だったからです。

 女神の前に並ぶ人々は、その言葉にサッと蒼ざめました。全員、それまで逸らせずにいた視線を女神ワイからはずして、そこでようやくデールが玉座の傍らに立つエルに気がつきました。
「お前は──」
 驚くデールに、玉座の女神が告げました。

「この者は、わらわの庇護下にある者。何人たりとも手出しはかなわぬ」
 デールの驚きは、女神の言葉によって憎しみに転化したようでした。あるいは、羨望だったのかもしれません。その瞳は、いずれにせよ欲に濁ったものでした。

 女神ワイは全てを氷らせるような冷たい視線を彼らに注いだまま、言いました。
「して、何用をもってわらわのもとを訪れたのじゃ? 死すべき定めの者たちよ。言葉はそなたらに贈りたる物。時には言葉にせねば伝わらぬこともある。そなたらの用向きを、わらわに告げよ」

 女神ワイの言葉に、居並ぶ人々はおどおどした様子で視線を交わしあいました。誰かが言わなくてはならないことも、自分では言いたくなかったのです。それほど、女神ワイは強大で怖ろしげに思えたのでした。しかしとうとう、押し黙る彼らの中から、デールが一歩前に出て、言いました。

「冬の女神ワイよ、われらは人の代表としてここへ来ました。われらは他の生き物たちと同じように短命であることにもう耐えられないのです。われらは貴女の凍える手で命を絶たれることには耐えられないのです。
 われらは万物の霊長として生を受け、三人の女神の庇護のもとに生きている。けれど貴女は、そのわれらを他の生き物と同様に扱い、冬の度に無数の命を奪い、われらを土塊に返してしまう。残された多くの者の哀しみなど知らぬ顔をして。
 もう、われらには死はいらない。われらは死の苦痛、死の悲しみ、死の無情をもはや必要としていない! 冬の女神ワイよ、凍える手でわれらに死をもたらすものよ、われら人は、死に死を与えることを望む!」

 その口調は、初めは穏やかなものでしたが、しだいに傲慢な本性を露わにして、まるで自らの言葉に酔う者のようにとうとうと続き、最後には叫びとなって終わりました。しかし、女神の玉座のかたわらにひかえるエルには、その言葉の底が見えるような気がしました。その傲慢な、不遜な言葉の奥底には、女神ワイへの恐怖がチラチラとほの見えていました。

 女神はデールの言葉を表情ひとつ変えることなく聴き終えて、言いました。
「……死すべき定めの者たちよ、そなたらの言葉をわらわは聴いた。そなたらの言葉はわらわには何の感慨ももたらさぬものであったが。
 さて、そなたらがわらわに望みたることは、わらわの与える死という名の安らぎを拒絶すると言うことか? しかと、これに相違ないか?」

 静かに問う女神ワイの言葉に、人々は無言でうなずきました。
 すると女神ワイは玉座から立ち上がりました。黒衣をまとった女神ワイは怖ろしく大きく見えましたが、激しい苦痛を堪えるように表情を暗くし、氷の軋みのような声を大きくして人々に告げました。

「……死すべき定めの者たちよ、わらわはこれより、そなたたち人に、死という名の恩恵を、安らぎをもたらすことはないであろう。どれほどの時が流れようと、そなたらはもはや死を得ることはないであろう。自然死、病死、事故死、自死、これら全ての死をそなたらは逃れるであろう。
 遙かな時の彼方、世界が老い果て、神々さえも老い果て滅び去る時が来るまで、そなたらは永劫の生の道を歩み続け、死という名の安らぎを見出すことは叶わぬ。
 見よ、そなたらの死は死んだのだ!」

 女神ワイの怖ろしい叫びと共に、氷の宮は大きく鳴動しました。天をさす女神の右手からは、凄まじい光があふれました。それはまるで千の雷が一度に炸裂したような光で、あたりは一瞬にして真っ白になりました。

 エルは恐ろしさのあまりその場に突っ伏してしまいました。けれど、その揺れと光は一瞬で去りました。しばらくして、エルがおそるおそる顔を上げた時、玉座の前にはオオウミガラスがひっくり返っているだけで、人は誰もいませんでした。あわてて玉座に目をやったエルは、そこにうなだれた女神ワイの姿をみました。その姿は、一瞬前の怖ろしげな大きな姿ではなく、生きることに疲れ果てた老女のようにも思えました。

 けれどエルが本当に驚いたのは、女神ワイの黒い瞳から途切れることなく吹きこぼれる、大粒の涙でした。





「……わらわは、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。でも、仕方がなかった、ああするしかなかった……。
 ああ、ゆるしてください、エル。わらわは、わらわの決断がどのような結末を招くことになるかを承知で、彼らから死を取り上げてしまった──」

 うなだれたまま、呟くように声を震わせる女神ワイの瞳からは、止めどなく涙が流れ落ちていました。

「女神さま、オレ……どうして……」
 エルは、どうして女神がこんなに哀しんでいるのかわかりませんでした。たしかに人に拒絶されて、それは悲しみかもしれないけれど、でもこれほどの悲嘆にくれることとは思えなかったのです。

「……そう、どうしてでしょうね……。彼らにはピヌ、グリヌ、フォルヌの加護があった。わらわはその力に抗しきれないのです。けれどそれ以上に、人の願いを無にすることはできなかった……。
 三人の女神もこの結末がどうなるか知っているはず。けれど彼女たちは、自らが与えた命、育んだ命、実らせた命をわらわに刈り取られることが辛かった。だから薄々結末を予想しながらも、人がその予想をこえることを期待して、力を与えたのです。けれど──」

 言葉を切って、ワイは涙をそっと拭いました。その眦からはなお涙がこぼれだしそうでした。濡れた瞳をエルに向けて、女神は続けました。

「……わらわは四人の中でもっとも人を愛する者。だからこそ、もっとも人をよく知っています。人は、予想される結末を乗り越えることはできない。わらわには見えるのです。凄惨な、残酷な、酸鼻な結末が……。わらわはそれを承知で──」

 エルは、得体の知れない寒気に体を震わせました。理由はわかりません。でも、女神ワイがこれほどの苦痛に苛まれる結末とは、怖ろしいもののように思えました。そして、出来ることなら訊きたくはないのに、自分の口が女神ワイにこう訊ねているのを聞きました。

「……女神さま、結末って……」
 女神ワイは苦痛に顔を歪める病人のように、目にいっぱいの涙をたたえたまま、静かに答えました。

「……わらわは言いましたね、自然死、病死、事故死、自死、人はこれら全ての死を逃れる、と。けれどひとつだけ、わらわが言わなかった死の形があるのです。
 それは、人が人を殺すこと、人が人を殺めること……。
 そして殺し合いの果てに生を終えても、彼らには真の死は与えられない。忘却の河の向こうの、三柱の大神の列するところへ赴くことはできないのです。永劫に、生でも死でもない、ただそこにあるだけの存在として、苦痛の内に居続けなくてはならない──」

 エルはかつてこれほど哀しい顔をした人を見たことがありませんでした。そして女神がただひとり孤独の内に、永遠にその哀しみに苛まれ続けることを想いました。

 女神ワイは、とうとう涙をおさめ、声に力をこめて言いました。
「そうです、エル。わらわは見届けなくては。自らの下した決断の結末を……。エル、そなたは──」

 わらわと共にいることはない、と言われることは、エルにはわかっていました。けれどエルは、女神ワイの言葉が終わらぬ内にいいました。
「オレ、お側にいます! ずっと、ずっとお側に──!」

 それからふたりは手をつないで、全てを見届けるために謁見の間を出ていきました。ふたりの後には、ヒョコヒョコと危なっかしい足取りのオオウミガラスが続きます。

 そして、広大な謁見の間は、静寂を取り戻しました。


BACK  NEXT