『終わりなき冬の物語』





 冬は去りました。

 一年は、春、夏、秋、この三つの季節が繰り返すこととなりました。冬はその力を隠し、大森林より南に下ることは決してありませんでした。大森林の向こうは一年中吹雪の吹きすさぶ冬が続きましたが、大森林をこえようとする人間はいなかったので、北の果てが冬であろうと人には関わりのないことでした。

 人以外の命には、等しく死が訪れました。それは約定の日に関わらず常に訪れる死でしたが、それも人には無関係なことでした。人だけは、死の影に怯えることもなく、若々しいままに長い長い生を謳歌し続けたのです。

 冬が訪れなくなったことは喜びでした。もう両親の死も、子供たちの死も、友人の死もおそれることはなくなったからです。人生から大いなる哀しみは除かれました。人々は終わりない青春を歓喜と共に迎えたのでした。

 都市は、拡大を続けました。知識も経験も、その全てを己のものとして学び続けることができるのです。高い塔が築かれました。レンガはより硬く、壊れることのないものになりました。鋼はよりつよく、しなやかで粘りのあるものが作られました。大地の底からは黄金や銀や貴石が運びだされ、工房で煌めく装飾品に姿を変え、貴婦人たちの胸元を彩りました。地平の果てまで、金色の麦穂が波打ちました。広大な牧草地には幾万の牛馬が放たれ、どれほど貧しい者の食卓にも三度の食事がない日はありませんでした。巨大な競技場が作られ、歓声の途絶える日はありませんでした。人々は若々しいままに満ち足りた生を送り、愛を語らわない日はありませんでした。

「地上にただひとりでも不幸な者がいれば、全てのひとは決して幸福ではない」

 これが人々の合い言葉であり、地上にひとりとして不幸なものがいるような兆しはありませんでした。生に飽きる者もなく、誕生の喜びがなくなることもありませんでした。人には世界の全てがありました。ただひとつ、死だけを除いて。

 けれども人の生が千年の時を閲したころ、奇妙な影が忍び寄ってきていることに一部の人は気づきはじめました。地上には人が満ちあふれ、幸福でない人はなく、その富は巨大な都市を埋め尽くすほどなのに、その人々の上に奇妙な影が射しているようなのです。最初は錯覚同然の薄い影も、年を経る毎にその色を濃くし始めました。人々が気づいて手を打とうとしたとき、それは既に手遅れになっていました。そう、幸福という名の木になる果実は、限度を越えて人々を養うことは出来なかったのです。

 大森林の向こうの冬枯れの大地を除いて、地上の端から端まで人のいない場所はもうどこにもありませんでした。人々は若々しい姿のまま、赤子は産声をあげ続けましたが、もはやどこにも新しい土地はありませんでした。無限の富を産み続けた鉱山ももはや錫さえ生まなくなりました。広大な牧草地は次第に狭められて、しかし牛の数は増やされました。地平の果てまで続く麦畑もまた狭められ、しかし麦は密に植えることで増やされました。都市は拡大を続けましたが、ひとりに当てられる部屋は狭められました。工房で作られる鋼は質を落とし続け、レンガはもろくなっていきました。けれども、人は増え続けました。子を減らそうとする試みはすべて虚しい結末を迎えて放棄されました。

 そしてとうとう、殺し合いが始まりました。自らの生活を維持するために、子供たちに充分な食事を与えるために、憎しみが憎しみを呼ぶ連鎖が必要を加速させ、大地は鮮血で染め上げられることになりました。そしてそのなかでも尚、死は与えられないのです。

 はじまりは、都市と都市の戦争だったのです。きっかけは土地の境界線を巡る諍いでした。交渉の席でひとりが剣を抜き、相手に振り下ろしました。その結果、相手は死にました。いえ、正確には生を止めたに過ぎません。生を止めた体はやがて腐って土にかえりますが、その存在は続き、生でも死でもないままに、死の瞬間の苦痛だけが永遠に続くことになるのです。けれども、そんなことは関係のないことでした。剣を振り下ろせば、相手は生を止める。これは人が減った分だけ幸福の果実の取り分が増えることを意味していました。

 死なないと思っていた人を殺すことができる。この発見は大地を揺るがせました。足りなければ、奪えばいい。幸福の量に限界があっても、その果実を受け取る人間が少なければ、幸福の量は増やせる。こうして、世界は殺戮の泥沼へと堕ちていきました。





 ソラノはかつて世界最大の都市でした。
 今、三人の女神、ピヌ、グリヌ、フォルヌの見つめる先には、崩れ落ちた城壁と、こぼれた塔の残骸と、今なお黒煙を吐き出し続ける工房の燃え殻と、そして足の踏み場のないほどに散乱する人の骸があるだけでした。

 肩から腹部にかけて大きく割り開かれた傷跡をさらす兵士。崩れたレンガに頭を砕かれて横たわる役人。家の梁の下敷きになって息絶えた母親と、その胸で鮮血に染まった瞳を見開いたまま息絶えた娘。無数の矢を全身に突き立てられてハリネズミのような姿をさらす若者……。

 所狭しとあふれる骸からは耐え難い腐臭が漂い、焼け焦げて黒い煙を吐き出す死体も数知れないありさまでした。むせ返るほどの血臭のなか、敵対する都市の兵士が生きている者がいないか捜して、ひとつひとつ骸を剣で突いてゆきます。

 ソラノの中央、長の館では、命なき骸に変わったデールに取りすがって泣く幼い少女の姿がありました。この少女はデールが最後にもうけた娘でした。けれど、いくら泣こうと父が戻ってくることはありません。現れたのは、娘の泣き声に気付いた敵の兵士でした。三歳か、四歳の少女に、兵士はためらうことなく凶刃をふるい、少女は泣き腫らした目を開けたまま絶命しました。全身に赤々と返り血を浴びた兵士は、その顔に何の感慨も浮かべることなく別の生存者を求めて歩み去りました。この少女が、ソラノ市民の最後のひとりでした。

 そして、この全てを見届けた三人の女神は、ついに決断の時が来たことを悟りました。





 北の果て、氷の宮の玉座には、黒衣をまとった女神ワイの姿がありました。玉座のかたわらにはエル、反対側にはオオウミガラスが控えています。そして玉座に坐る冬の女神の視線の先には、三人の女神が立ちつくしていました。広大な謁見の間は、沈黙に包まれていました。誰も一言も発することはありません。

 エルの目には、うなだれる三人の女神が後悔と哀しみに打ちひしがれているのがわかりました。それぞれが特徴のある美しさをもつ三人の女神は、その美しさ故により哀しげに見えました。

 とうとう、春の女神ピヌが重い口を開きました。
「……お願いです、冬の女神ワイ。ふたたび人々に死を、安らかな終わりを与えてはくれませんか。どうかふたたび、死せる者の命を、忘却の河の彼方へ送ってやってはくれませんか」

 続けて、夏の女神グリヌが言いました。
「……わらわたちは過ちを犯しました。わらわたちが与えた命、育んだ命、実らせた命をそなたに刈り取られる日々にやりきれなくなったのです。わらわたちの、愚かしさ故の過ちです。どうか、ふたたび人々に安らかな終わりを与えてやってはくれませんか」

 最後に、秋の女神フォルヌが言いました。
「……わらわたちの犯した過ちは、もはや取り返しがつかぬもの。わらわたちは時の終わりまで悔悟と哀しみを背負わなくてはなりません。けれどワイよ、今、そなたの力でふたたび命に安らかな終わりを与えることができるなら、われらはいかなる責め苦も喜んで受けるつもりです」

 そして三人の女神は、玉座に坐すワイの言葉を待ちました。
 どれほどの沈黙が続いたでしょう。ついに女神ワイはその重い口を開きました。しかし、エルにはワイの声は何の印象もないものに聞こえました。鈴の音のような声ではなく、氷が軋むような声でもない。強いて言えば、無の荒野に水滴がしたたるような、まるで感情のない無表情な声でした。

「……わらわは、ふたたび人に安らかな死を与えましょう。死せる者の命は、忘却の河の向こうへ送り出すことにしましょう」
 冬の女神のこの言葉に、立ちつくす三人の女神の瞳には再び希望の光が宿りました。しかし、冬の女神ワイはその無表情な声で、続けました。

「……しかし、それには条件があります。
 まず、そなたたちの季節は、一年のうちそれぞれ十二分の一とします。一年のうち四分の三が冬となるのです。
 次に、人は一年の間、常に死を迎えることになります。冬だけでなく、命のあふれる春も、青々と繁る夏も、豊かに色づく秋も、そしてもっとも長い冬も、すべての季節を通して、死と隣り合わせの生涯を送るのです。
 最後に、人の命数を三分の一に減らします。人から本来の命数のそれぞれ三分の二を削ります。
 この三つの条件に従うのであれば、もっとも古い三柱の大神の法(のり)に従い、わらわもふたたび人に死をあたえましょう」

 この言葉に三人の女神は首肯し、こうしてふたたび人に死が与えられることになりました。世界は、一年のほとんどを雪と氷に閉ざされることになりました。毎朝毎夜、季節を問わず人々には死が訪れることになりました。そして多くの人々が、若くして死を迎えることになりました。

 しかし、冬の女神ワイの美しい顔(かんばせ)にふたたび笑顔が浮かぶことはなく、北方の果ての大地から二度と出ることもありませんでした。





 三人の女神が去った後、謁見の間は深い静寂に包まれていました。

「ワイさま、どちらへ赴かれまするか?」
 玉座から立ち上がった女神ワイに、控えていたオオウミガラスが訊ねました。

「……あの場所へ」
 それだけを言うと、女神は振り返ることなく静かな足取りで玉座を離れ、謁見の間を後にしました。
 その後ろ姿を見送ったオオウミガラスは、エルと顔を見合わせました。

「私にはあの場所がワイさまにとってよい影響を及ぼす場所とはとても思えないばかりか、むしろ哀しみを深くされるばかりのような気がしてならないのでありまするに、いつもあの場所にワイさまは赴かれまするな」

 あいかわらずせわしない口調で、オオウミガラスはため息混じりにこう言いました。しかし、氷の宮で千年以上の時を経てなお、しなやかでやさしい心を失わないエルは、答えました。

「ワイさまがあの場所に行くときは、オレたちも行かなきゃいけないんだ。オレたちがいることで、ワイさまの哀しみが小さくなるとは思わないけど。でも孤独は一番ワイさまのためにならないよ」

 そう言うと、エルは女神の後を追いかけて走って行きました。オオウミガラスはひとつため息をついて、それでもやはり危なっかしい足取りでエルの後をよたよたと追いかけて行きました。





 女神ワイはいつもの場所で、ジッと立ちつくしていました。
 女神の右にはオオウミガラスが、左にはエルが立っています。

 そこは地平の果てまで続く氷原の真ん中でした。黒衣の女神の周りには、整然と立ち並ぶ数え切れない氷柱が、鉛色の雲間から時折さすかすかな光に照らされて長い影を描いていました。

 この大氷原に立ち並ぶ巨大な氷柱の一本一本には、逝くあてもなく生と死の境を彷徨う命が封じられているのです。

 どこまでも続く氷原に、地平の果てまで連なるかのような氷柱の群。

 世界の終わりまで変わることない冬の中で、その哀しい光景を冬の女神はいつまでもいつまでも見守っているのです。

 おしゃべりなオオウミガラスと、心やさしい少年とともに──。


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